エピソード

  • 誰ひとり孤児としない(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:15–24
    2026/07/19


    2026年7月19日 三位一体後第7主日

    説教題:誰ひとり孤児としない

    聖書: ヨハネによる福音書 14:15–24、申命記 24:17–22、詩編 146、ヤコブの手紙 1:22–27

    説教者:稲葉基嗣 

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    イエスさまが弟子たちのもとから離れたとき、弟子たちが途方に暮れないように、イエスさまは弟子たちに心の準備をさせたいと願って、彼らに語りかけました。「私は、あなたがたをみなしご(孤児)にはしておかない。」(18節)孤児という言葉には、旧約聖書からの影響を感じさせられます。古代イスラエルの社会において、孤児は、助け、導き、保護、安全、そして共同体などをすべて失ってしまいます。イエスさまがいなくなることによって、弟子たちはそのような絶望的な状況に置かれる可能性が十分にありました。だから、イエスさまは「あなたがたをみなしごにはしておかない」と約束しました。イエスさまは、弟子たちを孤児としないと伝えた直前に、もう一人の弁護者を神が遣わすと約束されました。その約束された弁護者とは、聖霊である神のことです。弁護者と訳されているギリシア語の単語はもともと、「助けのために、傍らに呼び寄せられた者」という意味を持つ単語です。聖霊は、私たちの傍らにあって、困難の時に私たちを助け、悲しみの時に私たちを慰め、いつも人格的な支えとなってくださる存在です。聖霊がともにあるから、私たちはいつも、イエスさまと共にいることができます。その意味で、私たちは決して孤児とされていません。イエスさまは、弟子たちに聖霊を与えると伝えたあと、イエスさまが与える戒めを受け入れ、守ることの大切さを伝えています。その戒めとは、イエスさまが愛したように、お互いに愛し合うというものです。イエスさまは、私たちを教会の交わりへと招いておられます。私たちは、教会の交わりを通して、お互いに助けと慰めを受け取ります。実際に助けを受け取れる、支えられ、慰めを受け取ることができる教会の交わりへと弟子たちを、そして、私たちを招かれました。そうすることによって、文字通り、決して孤児とはしない。そのようなイエスさまの意志が教会において表されているのです。世界を見渡す時、様々な形で孤児とされている人がいることを見聞きします。イエスさまが願ったように、誰ひとり孤児としたくないと願っているからです。教会が、助けを失った人の居場所となり、悲しむ人の慰めとなり、孤独な人の家族となっていくとき、この約束は今もこの世界で生き続けます。誰ひとり孤児としない。主イエスの思いを私たちも一緒に携えて、信仰の旅路を歩んで行きましょう。

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  • なぜ主イエスの名によって祈るのか?(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:8–14
    2026/07/12

    2026年7月12日 三位一体後第6主日

    説教題:なぜ主イエスの名によって祈るのか?

    聖書: ヨハネによる福音書 14:8–14、出エジプト記 34:1–9、詩編 116、ヘブライ人への手紙 12:1–3

    説教者:稲葉基嗣

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    物事には形式や、ある程度決まった型というものがあります。手紙などの書き方を教えてくれるため、形式や型は、私たちの支えになります。今日開いたイエスさまの言葉は、私たちの祈りに影響を与えている言葉です。私たちは、「主イエスのみ名によって祈ります。アーメン」と言って、祈りを終えます。これはまさに、繰り返し用いられている祈りの型といえるものです。イエスさまの名で祈ることは、イエスさまのことを思い起こすことです。イエスさまは何を行い、何を願っているのでしょうか。イエスさまの名で祈ることは、イエスさまと私たちの思いを重ね合わせ、イエスさまの願いや目的へと私たちが引き込まれていくようなものです。でも、そう考えると、イエスさまの言葉に、違和感を覚えるかもしれません。イエスさまが「願うことは何事でも、私がかなえてあげよう」と語っているからです。それは何だか、私たちの願いをかなえることを保証するために、イエスさまの名前を使って祈ることをイエスさまが励ましているかのようです。それって、まさに自分勝手な祈りなのではないでしょうか。「私がかなえてあげよう」と訳されている言葉は、直訳すると「私は行う」です。私たちが願った通りのことを機械的にイエスさまがしてくれるわけではありません。私たちが主イエスの名によって願うならば、イエスさまは能動的に行動されます。イエスさまの名によって祈る私たち自身は、イエスさまの思いと心を重ね合わせるようにと導かれていきます。イエスさまはここで、イエスさまの名によって神に向かって祈る私たちと共にいて、私たちと共に行動すると伝えようとしているのです。そう考えると、主イエスの名によって祈ることは、私たちの願いを押し通すこととは正反対のことです。神に私たちの願いを伝えながらも、神のもとに私たちの願いを手放していくことだからです。それは、自分の感情や思いを押し殺すこととは違います。自分の願いにただただ固執することをやめて、イエスさまと一緒に歩むべき道を模索していくことです。私たちが生きる世界は願いと願いがぶつかり合い、溝が深まり、争いがあります。そのような世界で生きているからこそ、主イエスによって呼び集められた教会という共同体は、主イエスの名によって祈り続けます。自分自身の願いを一度、神に預けます。自分の願いを押し通すためではなく、主イエスが示される道を共に歩むためです。

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  • 安心して従う生き方(稲葉奈々) – 創世記 24:42–49
    2026/07/05

    2026年7月5日 三位一体後第5主日

    説教題:安心して従う生き方

    聖書: 創世記 24:42–49、マタイによる福音書 11:25–30、詩編 145、ローマの信徒への手紙 7:15–25

    説教者:稲葉奈々(日本ナザレン神学校 3年生)

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    「神に従う生き方」とは、一体どのようなものなのでしょうか。今日の聖書箇所に登場するアブラハムの年老いた僕は、主人の息子イサクの結婚相手を探すという大役を任されました。彼は主人から絶大な信頼を得ていましたが、自分の経験や判断に頼ることなく、まず神に祈り、判断を神に委ねました。彼は「自分の持っている全ては、神の与えるもの以上に良いことはありえない」という神への信頼とへりくだりをもって行動しました。また、リベカの家族に対して「そうでなければ、そうでないとおっしゃってください。それによって私はどうするか、決めなければなりません」と語り、自分の確信を神の意思だと過信しない謙虚さと柔軟さを示しました。祈れば必ず思い通りの結果になるわけではありません。祈りは、神からの見返りを保証するものではないからです。だからこそ、僕のように、神への心からの信頼と、目の前の出来事に対する柔軟さの両方を忘れないことが大切ではないでしょうか。リベカもまた、突然の縁談という状況に置かれましたが、彼女は自ら水を汲み、らくだにも水を与え、与えられた出来事に能動的に応答しました。彼女もまた、「神から与えられるものすべては良いものである」という信頼をもって行動していたのです。登場人物一人ひとりの決断と行動の根底には神への絶対的な信頼がありました。私たちも人生の中で重荷や理不尽に直面しますが、神から与えられる良きものに全信頼を置く生き方を選ぶことができます。私たちは、自分の人生という個別の物語を生きているように見えますが、実際には一人ひとりの物語がかけ合わさって、この世界が形づくられています。絶望の物語の中に生きている人が溢れる世界の中で、教会に集う私たちは用いられようとしています。神の配慮のもとに集められた私たちが、安心して生き、お互いを思いやって行動する姿を通して、この世界に神をあらわしていくよう招かれています。主に従う生き方とは、この世界の現実を変える力を持った生き方です。その確信を握り、喜びと希望を携えて歩んでいきましょう。

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  • 今ここに訪れた命(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:1–7
    2026/06/28

    2026年6月28日 三位一体後第4主日

    説教題:今ここに訪れた命

    聖書: ヨハネによる福音書 14:1–7、イザヤ書 58:6–11、詩編 146、コリントの信徒への手紙 一 1:8–9

    説教者:稲葉基嗣

     

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    ヨハネによる福音書にとって、永遠の命とは何よりも、神との豊かな交わりです。このような神との交わりは、完全なものではないかもしれないけど、今、この時、この場所で、もう既に味わい、体験できるものです。というのも、イエスさまが私たちに命をもたらし、神と私たちを今、ここで、結びつけてくださっているからです。イエスさまの側から歩み寄り、神と私たちを結びつける道をイエスさまが作り出してくださいました。その道は、私たちのもとに今、ここに、この場所に、神と共にある、豊かな命が訪れていることを伝える道です。多くの場合、私たちは命を受け取るよりも、命をすり減らす気持ちを味わいます。私たちの生きる世界はまさに、命が訪れたことを実感するよりも、命が傷つき、踏みにじられ、奪われることの方が遥かに多く感じてしまう世界だと言えます。でも、その一方で、どれだけ立ち止まっても、私たちの命が回復しないと実感することだってあります。というのも、私たち人間が抱える罪や悪によって、社会の構造によって、私たちは命が傷つき、損なわれてしまっているからです。だから、ヨハネは、イエスさまを見つめるようにと私たちに促しています。そう、イエスさまが命そのものとして私たちのもとに来てくださいました。それは、人生において、この社会において、そしてこの世界において、命が傷つき、損なわれ、踏みにじられてばかりいる私たちにとって大きな希望です。キリストによって、今、私たちの傷ついている命が回復されるというのですから。命であるキリストよって、永遠の命を確かに得るというのですから。イエスさまは私たちが神から与えられた生命を分かち合うことを望んでいます。そして、何よりも、私たちに出来るのは、共に生きることです。見放したり、無視したりするのではなく、共に生きる道を選んでいくことです。そのようにして、イエスさまを通して、私たちのもとに訪れた命を私たちは、私たち自身を通して、他の誰かと共に分かち合うことができます。もちろん、それが難しい時だってあります。そんな時には、どうか教会の交わりに頼ってください。神が備えてくださった、命にあふれる交わりがここにあるのですから。神と共にある永遠の命はイエスさまを通して私たちのもとに訪れています。そして、教会の交わりを通して、この命が訪れることを心から実感し、喜ぶことができるのです。

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  • 正解探しではない旅への招き(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:1–7
    2026/06/21

    2026年6月21日 三位一体後第3主日

    説教題:正解探しではない旅への招き

    聖書: ヨハネによる福音書 14:1–7、ミカ書 7:18–20、詩編 91、テモテへの手紙 二 2:11–13

    説教者:稲葉基嗣

     

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    人生の中で正解だけを模索することって、とてもシンドイことだと思います。正解だけしか許されないならば、間違えが怖くて、他のことを楽しむ余裕などなくなってしまいます。けれども、イエスさまがここで語った「真理」という言葉は、そのような窮屈さを伝える言葉ではありませんでした。旧約聖書において、真理とは、神の誠実さを指すものです。神はどんな時でも彼らに与えた約束や契約に、誠実であり続けました。たとえ人間の側から裏切られることがあっても、すべての人を救いたいという、神の願いとその熱意は変わりませんでした。そもそも、この言葉を聞く私たちの側は、何度も過ちを繰り返します。けれども、神はそんな私たちを決して見捨てません。これこそが、イエスさまが提示する真理です。決して、正解のみを突きつけることとは違います。私たちが招かれている旅は、神の誠実さと出会う旅です。それは、私たちが何者であるのかを問いません。私たちが何か良いことをしたわけでもなく、私たちが正解を選び取ったからでもありません。神が私たちを愛し、憐れんでくださったからです。私たちの人生には正解がない選択肢の方が多いのかもしれません。でも、イエスさまは正解を常に選べとは言いません。イエスさまが私たちに伝えてくださっていることは、神が約束に忠実な方であるということです。どのような道を私たちが選んでも、神が共にいてくださいます。何度失敗し、何度挫折しようとも、神は私たちを決して見捨てません。私たちの旅路を支えるのは、私たちの決断の正確さではありません。どのような時も、神が共にいてくださることこそ、私たちの支えです。神の誠実さに触れ、愛を示された私たちは、同じように、誠実さを、共に生きる人たちにも向けることができるはずです。お互いに、正解や間違い探しをする必要はありません。そうではなく、どのような時においても、神が共にいてくださっていることを私たちはお互いに思い起こし合います。そして、必要ならば手を取り合い、支え合いながら、私たちは信仰の旅路をこれからも共に歩んで行きましょう。

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  • 主イエスはどのような意味で道なのか?(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:1–7
    2026/06/14

    2026年6月14日 三位一体後第2主日

    説教題:主イエスはどのような意味で道なのか?

    聖書: ヨハネによる福音書 14:1–7、イザヤ書 43:16–21、詩編 1、ヨハネの手紙 一 5:6–12

    説教者:稲葉基嗣

     

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    目的地へと向かう道筋を思い浮かべながら、私たちは道という言葉を使います。どんな人生を歩むのかもまた、道という言葉を聞く時、私たちが思い浮かべることのひとつかもしれません。イエスさまは弟子のひとりである、トマスから道を尋ねられています。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道が分かるでしょう。」(5節)このトマスの問いかけは、神のもとへと向かうことが自分たちには可能なのかという問いかけといえます。どのようにしたら、神のもとにたどり着くのか。どうすれば、神は自分を受け入れてくれるのかという問いかけともいえます。ある人は考えます。何の罪も、悪も抱えていない。そんな純粋で、無垢で、心が清い人だけが神のもとにたどり着ける、と。でも、そんな人はどこにもいません。私たちは誰もが等しく、過ちを犯します。常に正しく人生の旅路を歩めるわけでもありません。そんなトマスの言葉に対するイエスさまの回答はどのようなものだったでしょうか。「私は道であり、真理であり、命である」(6節)。イエスさまは、むしろ、私たちのもとに来て、私たちと共に生きることを選んでくださった方です。それは何よりも、私たちの側が何とかして神に会いに行くのではなく、神の側から私たちのもとに来てくださったことも意味します。イエスさまは、「私が道である」と言います。それは、あなたがあなた自身の道にならなくてもよい、ということです。「あなたが自分の人生に、すべての責任をもって、最初から最後まですべてのことを決める。それだけがすべてじゃないんじゃない?」イエスさまは言います。「だから、私が来たんだ」と。「私があなたの道となる。あなたの人生のすべてを引き受ける。」悩み、不安を抱えながら、先の見えない道を歩く私たちの人生の旅路に、神がいつまでも伴うために、イエスさまの方から、神の方から来てくださいました。イエスさまが私たちの道である方法は、私たちが悩みながら、苦しみ、時には悶えながら歩いている道を一緒に悩みながら、生涯の終わりに至るまで歩いてくださることです。道である主イエスを一緒に見つめながら、助け合い、支え合いながら、私たちは生涯の旅路を天の御国を目指して歩んでいきます。

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  • 主イエスが用意する居場所(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:1–4
    2026/06/07

    2026年6月7日 三位一体後第1主日

    説教題:主イエスが用意する居場所

    聖書: ヨハネによる福音書 14:1–4、出エジプト記 25:1–9、詩編 23、エフェソの信徒への手紙 2:19–22

    説教者:稲葉基嗣

     

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    イエスさまは「私の父の家には住まいがたくさんある」(2節)と語りかけています。まるで、天の国に私たちの居場所が確実にあることを保証しているかのようです。けれども、イエスさまが私たちに保証する居場所って、天の国だけなのでしょうか。イエスさまは、弟子たちに向かって「心を騒がせてはならない」と言いました。ユダヤ社会でも、ユダヤ社会の外でも自分たちの居場所を見出すことができない。それはまさに、キリストを信じる人々が直面した、心騒がせる出来事でした。けれども、イエスさまが何よりもこの時に弟子たちに伝えたかったのは、この地上において、彼らに居場所があるということです。イエスさまは、自分こそが神殿だと人々に伝えました(ヨハネ2章13-22節参照)。特定の場所ではなく、イエスさまと出会うところにおいて、誰もが神と出会い、居場所を得ると、イエスさまは伝えようとしています。イエスさまのもとに集められた人たちが出会い、関係性を築き、居場所を作っていくのです。私たちはそのようにして築かれた共同体を教会と呼びます。主イエスにあって集う愛する友たちがいる。だから、孤独ではない。居場所はある。神が与え、イエスさまが招いてくださったこの居場所は、誰もあなたから奪えない。イエスさまを中心にして集まった、神の愛と憐れみに基づき、平和のうちに生きようとする交わりがもうそこにあるからです。居場所を用意すると約束する前から、イエスさまは居場所を作ろうとする方でした。社会の中で嫌われている人たちこそ食卓に招き、彼らに居場所を提供しました。「ここにいていいんだよ」と、イエスさまが行動を通して、色々な人に示したように、誰もが条件なく、いることができるのが教会です。神が壁を作り出すことを願わず、イエスさまが壁を乗り越えていこうとしたように、お互いの間に不必要な壁を出来る限り作らないのが、教会の姿です。私たち自身がイエスさまから受け入れられ、神から居場所を与えられていることを思い起こし続ける必要があるのでしょう。神の側がまず初めに、イエスさまを通して、私たちを救い出し、居場所をそして教会の交わりを与えてくださったのです。私たちを受け止めてくださる主イエスの愛に押し出されて、多くの人を受け止められる居場所が、教会の歩みや皆さんの日常のあらゆる営みを通して、少しずつ広がっていきますように。イエスさまが用意してくださっている居場所を届けるために、私たちに出来ることを積み重ねていくことが出来ますように。

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    20 分
  • 簡単に命を捨てるな(稲葉基嗣) – ヨハネ 13:36–38
    2026/05/31

    2026年5月31日 三位一体の主日

    説教題:簡単に命を捨てるな

    聖書: ヨハネによる福音書 13:36–38、エゼキエル書 18:30–32、詩編 56、ローマの信徒への手紙 14:7–9

    説教者:稲葉基嗣

     

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    ペトロはイエスさまに、「どこへ行かれるのですか」と尋ねました。この時のペトロの一番の関心は、イエスさまが一体どこへ行くのかにありました。彼は「あなたのためなら命を捨てます」と言って、イエスさまにどこまでもついて行けるという意思を伝えました。自分の命を投げ捨ててでも、ペトロはイエスさまの命を救おうとします。自分の命を犠牲にしてでも、イエスさまに従おうとします。それが彼にとってのあるべき弟子としての姿でした。でも、それは本当にイエスさまが弟子たちに求めたことだったのでしょうか。神の子であるイエスさまのうちに命があり、イエスさまを通して、すべての人が命を得ることをヨハネはこの福音書全体を通して伝えています。イエスさまの命を通して、すべてのものが命を得て、生きるために、神は独り子であるイエスさまを私たちのもとに与えてくださったのです。イエスさまのためならば、自分は命を投げ出すことができる。そのように語ったペトロの言葉は、イエスさまの思いとは、正反対のことでした。イエスさまは決してペトロがそのような命の捨て方をすることは望んでいません。イエスさまのために死を選ぶのではなく、イエスさまのために生きることをこそ選んでほしい。命をすり減らして生きるのではなく、その豊かさを味わって喜びのうちに生きてほしい。それこそが、イエスさまの願いでした。イエスさまはペトロに直接的にこのことを伝えませんでした。むしろ、イエスさまは、ペトロがこれから失敗することを伝えます。事実、ペトロはイエスさまを見捨て、自分の弱さと向き合うことになりました。でも、イエスさまはそんなペトロをこそ、受け止めました。自分の命をすり減らした結果、挫折してしまったペトロにこそ、イエスさまは命の豊かさを取り戻して欲しかったと思います。イエスさまが私たちに求めておられるのは、完璧な姿でも、命がけの無理を重ねることでもありません。「簡単に命を捨てるな。わたしがあなたを生かすから、どうか生きてくれ。」これこそが、イエスさまが私たち一人ひとりに向けて語りかけておられることです。どうかイエスさまが与えてくださる命の豊かさにこそ身を委ねて、神に与えられている自分自身の命と、共に生きる人たちの尊い命を喜びのうちに受け止めて、日々歩み続けることができますように。

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    23 分