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主イエスはどのような意味で道なのか?(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:1–7

主イエスはどのような意味で道なのか?(稲葉基嗣) – ヨハネ 14:1–7

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2026年6月14日 三位一体後第2主日

説教題:主イエスはどのような意味で道なのか?

聖書: ヨハネによる福音書 14:1–7、イザヤ書 43:16–21、詩編 1、ヨハネの手紙 一 5:6–12

説教者:稲葉基嗣

 

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目的地へと向かう道筋を思い浮かべながら、私たちは道という言葉を使います。どんな人生を歩むのかもまた、道という言葉を聞く時、私たちが思い浮かべることのひとつかもしれません。イエスさまは弟子のひとりである、トマスから道を尋ねられています。「主よ、どこへ行かれるのか、私たちには分かりません。どうして、その道が分かるでしょう。」(5節)このトマスの問いかけは、神のもとへと向かうことが自分たちには可能なのかという問いかけといえます。どのようにしたら、神のもとにたどり着くのか。どうすれば、神は自分を受け入れてくれるのかという問いかけともいえます。ある人は考えます。何の罪も、悪も抱えていない。そんな純粋で、無垢で、心が清い人だけが神のもとにたどり着ける、と。でも、そんな人はどこにもいません。私たちは誰もが等しく、過ちを犯します。常に正しく人生の旅路を歩めるわけでもありません。そんなトマスの言葉に対するイエスさまの回答はどのようなものだったでしょうか。「私は道であり、真理であり、命である」(6節)。イエスさまは、むしろ、私たちのもとに来て、私たちと共に生きることを選んでくださった方です。それは何よりも、私たちの側が何とかして神に会いに行くのではなく、神の側から私たちのもとに来てくださったことも意味します。イエスさまは、「私が道である」と言います。それは、あなたがあなた自身の道にならなくてもよい、ということです。「あなたが自分の人生に、すべての責任をもって、最初から最後まですべてのことを決める。それだけがすべてじゃないんじゃない?」イエスさまは言います。「だから、私が来たんだ」と。「私があなたの道となる。あなたの人生のすべてを引き受ける。」悩み、不安を抱えながら、先の見えない道を歩く私たちの人生の旅路に、神がいつまでも伴うために、イエスさまの方から、神の方から来てくださいました。イエスさまが私たちの道である方法は、私たちが悩みながら、苦しみ、時には悶えながら歩いている道を一緒に悩みながら、生涯の終わりに至るまで歩いてくださることです。道である主イエスを一緒に見つめながら、助け合い、支え合いながら、私たちは生涯の旅路を天の御国を目指して歩んでいきます。

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