• 人間の肉体の創造 −1【エジプトの神話と謎3】
    2024/09/08

    私たちは、巨大な水による大災害の結果滅びた、アトランティスの時代に続く、その後の文化全般における神秘的なつながりを見てきました。そしてまたアトランティスに続くものである私たちのこの時代も、やがて滅んでいくことでしょう。

    現代の私たちのこの第五番目の時代を含む、アトランティス以降の時代の終わりには、つまり、この世界状況の終わりには、アトランティスに終焉をもたらした大災害と同じような影響を与える巨大な惨事が起こることでしょう。

    現在の地球の陸地における第五番目の時代である私たちの文化は、この後につづく、地球の未来の最後の文化時代である、第七番目の時代において、万人の万人による戦争によって終焉を迎えます。


    これらの興味深いつながりは、ある特定の繰り返しの中で示唆されています。もし私たちがそれをより詳しく調べていけば、私たちの魂の生命に深く光を当てることができるでしょう。

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  • なぜ私たちはこの世にこだわるのか? ミイラの秘密を解く。
    2024/08/24

    エジプト人が死者をどのように扱っていたのかを考えると、そこにミイラが思い浮かぶのです。 エジプト人は、外側の肉体の形を長く保存することに関心を持っていました。そうすることで、過去の肉体的な生活を思い出させる特定の道具や所有物、肉体生活に必要なもの、時には従者も共に墓に埋めたのです。このようにして、その人が物質世界で持っていたものが保存されるのです。 エジプト人はそのような方法で死者を物質世界と結びつけました。この習慣はますます発展していきました。これがまさに古代エジプト文化の特徴なのです。

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    20 分
  • エジプトの神話と謎1
    2024/08/19

    私たちがこの主題、つまり、古代エジプトから現代に至るまでの時代を扱うには、その膨大な期間を調査する必要があります。そこには、私たちが調査しなければならない、何千年もの時間があり、そして、私たちがここから得たいものは、本当に私たちの魂の、最も深い事柄に関係するもの、つまり、私たちの魂の生命の、最も奥深い部分に介入することになるものなのです。 なぜなら、私たちが人生の高みを目指して努力することは、そのことによって、自分に直接与えられるものから、自分を切り離すということが明らかだからです。まさに、これが、私たちがいつも自分自身に関係していることを理解する方法なのです。 私たちは、その日の悲惨さや、日常生活がもたらすものから離れ、世界と国の歴史の偉大な出来事を見上げなければならないのです。そうして初めて、魂が最も神聖なものとして保持しているものを見つけることができるのです。

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    28 分
  • 主の祈り・人間の魂が最高度に成長しうる道
    2024/07/30

    東洋の宗教では瞑想が好まれています。瞑想とは、霊的な内容に没頭することであり、瞑想者が没頭するその霊的な内容を通して、その中で世界の霊的で神聖な源との合一を見出すことです。 したがって、このことを正しく理解して頂きたいのです。 瞑想の公式、たとえばある祈りのような公式をその弟子に与える宗教があります。それは、そのような公式の中に身を浸し、その中に没入すことで、神聖な霊的生命の流れがどのように魂を通過し、それが通過する瞬間に、どのように人間がそれを感じるのかを導く特定の祈りのような公式です。そのような瞑想の瞬間は、霊的で神聖な基盤であるものと融合するのです。 しかし、これらの公式はより思考的な内容なのです。キリスト教の祈りも、基本的にはそれ以外のものではありません。ただキリスト教の祈りはその内容がより繊細で感情的なものであるというだけのことなのです。 キリスト教者は世界を流れる神聖な存在に対して、感情や感覚を通してより深く自分自身をその神聖な存在へと浸透させていくのです。 しかし、キリスト教の祈りが常にそのような意味で理解されてきた、あるいはその祈りが、今日一般的に理解されているような形で理解し切れるものであると信じてはいけないのです。 キリスト教の祈りには、キリスト・イエスご自身が、祈りにおいて、どのような気分が必要であるのかを可能な限り明確に指摘された原初の祈りがあります。この第一の祈りは、次のような短いものです。 「父よ、できることであれば、この杯を私から取り去ってください」 「しかし、私の意志ではなく、あなたの意志が行われますように」 この最後の言葉を考えてみましょう。まず第一に、私たちは、「苦しみの杯を取り去ってほしい」という現実的な要求に直面します。しかし同時に、「私の意志ではなく、あなたの意志が行われますように」という、神の 神聖な意志に完全に吸収されることに向かい合うのです。 祈りの間、神の霊的な意志が私たちを通して働くことを許し、その意志に没頭し、自分のために何かを望むのではなく、神聖が私たちの内に望むことを許す、というこの気分は、この時のキリストの教えであるものと重なるために、私たちの祈りの底流として、その基調として、私たちの祈りに浸透していかなければならないものなのです。

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    1 時間 54 分
  • 人間の魂が最高度に成長しうる道としての主の祈り【主の祈り4】
    2024/07/26

    キリスト教的な意味での祈りについて語るとき、まず第一に、祈りの形は、神に対する黙想、献身、つまり委ねること以外の何ものでもないことに気づかなければならないのです。 精神的な観想によってこの献身を達成しようとする偉大な宗教では、それは瞑想と呼ばれ、そしてこの献身が頭よりも心から、つまり、より人格的な部分から発せられる宗教では、この献身は祈りと呼ばれています。 キリスト教では、この献身は個人的な性格を帯びています。そして古い宗教では、それはもっと無意識的で非個人的なものであったのです。あらゆる宗教やあらゆるところに、瞑想の公式、魔術の公式があります。そしてこれらの魔術の公式は、瞑想と同じように、あるいは瞑想的な意味さえ持っているのです。 つまり私たち人間は、瞑想的に神に身を捧げようとし、また魔術を実践することによっても神に身を捧げようとしてきたのです。しかし、キリスト・イエスはこう戒めています。「世間で起こっていることについて祈るのではなく、祈るときは自分の内側の深くに、その奥深くに入りなさい」 神の本質の何かが人間の中に生きていて、神の本質の一滴が人間の中に生きています。人間は神と同じ素材でできています。海の全体と、その雫である一滴が同じ物質であることにおいて、そうなのです。そしていま、私たちは、最初の秘教学派の慣習に従って、宇宙と人間を見いきたいと思います。

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    35 分
  • 魔法の力としての主の祈りの構造【主の祈り3】
    2024/07/19

    私たち人間の肉体は、外部にある物質と同じ、物理的性質とその力を持つものであり、そしてその同じ物質と力を継続的に変換させるものでもあるのです。これらの物質と力は人間の肉体を出入りし、そしてこれらが継続的に出入りするからこそ、肉体はその存続が可能になっているのです。つまり肉体は、外側の物理的な物質を通して絶えず自分自身を更新し、変化させることによってのみ存在することができるのです。 つまり私たち人間の肉体を、そのままの形で地球から切り離すという、その物理的な断絶は不可能なことなのです。私た人間の肉体は地球の要素との関係においてのみ存在することができるのです。物理的な物質やその力は、人間の肉体の内側と外側を出入りし、それによってのみ人間は自らの本質を保つことができるのです。これが人間の低次の部分の第一の構成要素である肉体の特徴なのです。 生命への力である、このエーテル体は、成長と生殖、生命現象全般の担い手であると同時に、それとはまったく異なるもの、すなわち、一過性の本能や欲望や情熱よりも永続的な性質を持つ、人間のあらゆる資質の担い手でもあるのです。高次の意味での正しい霊学の研究者になる人にとって、そこで行われる訓練は外的な学びに基づくものではなく、すべての霊学的訓練はエーテル体で行われるのです。 したがって、外的な知識をたくさん身につけるよりも、既に染み付いた性格的特徴を、たとえ一つだけでも変えることに成功するほうが、実際の霊的訓練においては、より多くのことを成し遂げたことになるのです。つまり、エーテル体がどのように経験を蓄積していくのかは外的特性として区別されるものであり、そしてエーテル体が何を必要としているのかは霊的に区別されるのです。 また、エーテル体は記憶そのものではなく、性質としての記憶の担い手でもあるのです。例えば、記憶する力がより鋭くなるとしたら、それはエーテル体の変化を意味するのです。・・・

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    29 分
  • 人間の魂入れを理解する【主の祈り2】ルドルフ・シュタイナー人智学講義
    2024/07/08

    私たちは今、人間の低次の本性がすでに存在していた時代に到達しています。つまり、レムリアの時代に到達しているのです。そこでは、肉体、エーテル体、アストラル体、そして自我という4つの要素からなる存在たちが、その地上を歩いていました。これらの存在は、今日の最高レベルの動物よりも高度に組織化されていました。しかし、まだ人間ではなかったのです。彼らは動物的人間でした。しかし、今日の動物とは違っていたのです。彼らは、その動物的人間から取り残され、そこから退行することによって発達したその子孫なのです。つまり人間は動物から進化したのではなく、動物から離れることで進化して行ったのです。そして、当時生きていたこれらの存在に、非常に特別なことが起こりました。その時、彼らは、自分自身の中に、ある特定の力を、つまり現在の私たちの、高次の魂の力を吸収するための準備ができていたのです。それは、いわば低次の人間性と、本来の人間である魂との結合が、その時に起こったということなのです。その時まで、この人間の魂であるものは、神格の懐に安住していました。それは神そのものの要素だったのです。したがって、この人間の魂の上には霊的な領域があり、そこには神と霊の実体があり、そしてこの人間の魂の下には、この時点で既に成熟し、神性の雫を吸収することができるようになっていた、人間の四つの本性を構成し得るその殻、あるいはその鞘とも呼べるものがあったのです。

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    25 分
  • 祈りの本質 / 神の発見と運命を受け入れる力
    2024/06/30

    中世に出現した特別な種類の神秘主義的な観想の特徴は、つまりその概念の特徴は、その神秘主義者が、外界によって私たちの魂が刺激される、そのあらゆる体験から、自由で独立した存在になろうとすること、そして、自由な自分を示しているその体験に浸透しようとすることでした。 これは、今日という一日の、普通の出来事に由来する魂のすべての関わりが消えて、そして魂が、いわば自分自身の中に引きこもったとしても、人間の魂の中には自分自身のための世界、つまり、常にそこに魂の世界が残っているということへの認識なのです。 この認識は、外部の経験によってのみ照らされるものであり、そうでなければ、非常に強力な影響を人々に与えるものであるために、最初は弱い光としてしか見えないのです。それは、とても弱い光なので、気づかない人も多くいることでしょう。中世の神秘家が最初にこの内なる魂の世界を「小さな火花」と呼ぶのはそのためなのです。 しかし、自分の魂の経験のこの目立たない小さな火花が、存在の源と基盤を照らす、強大な炎に燃え上がることができることは明らかなのです。言い換えば、この小さな火花は、人間を自分自身の魂へと導き、自分自身の存在の起源を明らかにする知識へと導くのです。そしてそれは、間違いなく、神の知識と呼ぶことができるものなのです。 中世の神秘主義者たちは、当初、この小さな火花は、いわばそのままの形で、それ自体を通して成長しなければならないと考えていました。 これとは対照的に、今日の "霊的研究 "と呼ばれているものは、人間の意志の中に置かれた、その小さな火花である、これらの内的な魂の力の意識的な発達に基づいているものなのです。この魂の意識的に発達する力は、私たちが、想像的知識、霊感的知識、直観的知識として説明しているような、より高い種類の霊的知識の段階を昇っていくものであることが強調されています。 したがって、中世の神秘主義的な観想は、つまり内観としての概念は、最初は内なる「小さな火花」であるものの発展を通して魂を探究し、そして、その探求が更に独自の道を歩むことによって、そこで、内的な自己存在を超えて導かれていく、真の高次の霊的研究の出発点であるように、私たちはそのように思えるのです。

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    1 時間 58 分