『主の祈り・人間の魂が最高度に成長しうる道』のカバーアート

主の祈り・人間の魂が最高度に成長しうる道

主の祈り・人間の魂が最高度に成長しうる道

無料で聴く

ポッドキャストの詳細を見る

このコンテンツについて

東洋の宗教では瞑想が好まれています。瞑想とは、霊的な内容に没頭することであり、瞑想者が没頭するその霊的な内容を通して、その中で世界の霊的で神聖な源との合一を見出すことです。 したがって、このことを正しく理解して頂きたいのです。 瞑想の公式、たとえばある祈りのような公式をその弟子に与える宗教があります。それは、そのような公式の中に身を浸し、その中に没入すことで、神聖な霊的生命の流れがどのように魂を通過し、それが通過する瞬間に、どのように人間がそれを感じるのかを導く特定の祈りのような公式です。そのような瞑想の瞬間は、霊的で神聖な基盤であるものと融合するのです。 しかし、これらの公式はより思考的な内容なのです。キリスト教の祈りも、基本的にはそれ以外のものではありません。ただキリスト教の祈りはその内容がより繊細で感情的なものであるというだけのことなのです。 キリスト教者は世界を流れる神聖な存在に対して、感情や感覚を通してより深く自分自身をその神聖な存在へと浸透させていくのです。 しかし、キリスト教の祈りが常にそのような意味で理解されてきた、あるいはその祈りが、今日一般的に理解されているような形で理解し切れるものであると信じてはいけないのです。 キリスト教の祈りには、キリスト・イエスご自身が、祈りにおいて、どのような気分が必要であるのかを可能な限り明確に指摘された原初の祈りがあります。この第一の祈りは、次のような短いものです。 「父よ、できることであれば、この杯を私から取り去ってください」 「しかし、私の意志ではなく、あなたの意志が行われますように」 この最後の言葉を考えてみましょう。まず第一に、私たちは、「苦しみの杯を取り去ってほしい」という現実的な要求に直面します。しかし同時に、「私の意志ではなく、あなたの意志が行われますように」という、神の 神聖な意志に完全に吸収されることに向かい合うのです。 祈りの間、神の霊的な意志が私たちを通して働くことを許し、その意志に没頭し、自分のために何かを望むのではなく、神聖が私たちの内に望むことを許す、というこの気分は、この時のキリストの教えであるものと重なるために、私たちの祈りの底流として、その基調として、私たちの祈りに浸透していかなければならないものなのです。

主の祈り・人間の魂が最高度に成長しうる道に寄せられたリスナーの声

カスタマーレビュー:以下のタブを選択することで、他のサイトのレビューをご覧になれます。