• #061 「本願を疑惑するのと、本願の内容の意味が分からないのは、同じなのでしょうか?」(頂いた質問)
    2026/07/17

    ○今回は以下の質問について話をしました。

    ---

    浄土真宗の信心は、「仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし」ですが、

    私には、仏願の生起である、「無常」や「罪悪」が分からず、煩悩悪業によって、流転輪廻していることも分からず、また「後生の一大事」と聞いても、驚きも立たずに、何とも思いません。

    また、阿弥陀仏が私一人を救うために、五劫思惟の願や、兆載永劫の行をされて、私を救うための手段として「南無阿弥陀仏」が完成されて(仏願の本)、その本願の名号である「南無阿弥陀仏(念仏の信心)ひとつで救われる」(仏願の末)と聞いても、意味が分からないのですが、これらのことは、本願を疑惑していることになるのでしょうか?

    私は、本願を疑惑するというよりも、仏願の生起本末の内容の意味が分からないのです。

    本願を疑惑するのと、本願の内容の意味が分からないのは、同じなのでしょうか?

    また、本願疑惑心が無くなると、仏願の生起本末の内容の全てに対して、塵露ほどの疑いも無くなるのでしょうか?

    ---



    ○話の中で出した御文

    ここをもつて、いま大聖(釈尊)の真説によるに、難化の三機、難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀してこれを憐憫して療したまふ。たとへば醍醐の妙薬の、一切の病を療するがごとし。濁世の庶類、穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。本願醍醐の妙薬を執持すべきなりと、知るべし」(教行信証信巻・浄土真宗聖典註釈版P296)

    ---

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  • #060 「本願疑惑心や疑情(疑心)や自力心は、煩悩の一種なのか?」(頂いた質問)
    2026/07/11

    今回は#059を聞かれた方からの質問です。


    ○質問

    ---

    第59回目を聞いて、「阿弥陀仏の本願と私の関係性が非常に大切」だということは理解できたのですが、本願疑惑心や疑情や自力心が、煩悩だということを聞いて、不審に思いました。


    それというのも、親鸞聖人は、以下の文証のように、凡夫の煩悩は死ねまで無くならないと言われているからです。

    阿弥陀仏の本願の救いと、煩悩は関係がないと思っていましたが、本願疑惑心や疑情や自力心が、煩悩であるならば、本願疑惑心や疑情や自力心も死ねまで無くならないということになりませんか?


    浄土真宗の信心は、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」ではないのですか?

    この疑心が煩悩であるならば、疑心は死ぬまで無くならないことになりませんか?


    疑心往生説は、異安心だと聞いたことがあるので、

    本願疑惑心や疑情(疑心)や自力心は、煩悩の一種なのか?について、お聖教を根拠にして、ネットラジオ版安心問答でお話を聞かせていただきたいです。


    よろしくお願いします。


    「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず。(一念多念証文)P693

    --


    ○話のなかで出したご文


    ○教行信証信巻

    ○【65】 しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(浄土真宗聖典註釈版P251)


    ○まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。(教行信証信巻・浄土真宗聖典註釈版P230)

    ○【28】 次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典註釈版P234)


    ○教行信証化土巻

    ○そのときに慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、〈世尊、なんの因なんの縁にか、かの国の人民、胎生・化生なる〉と。仏、慈氏に告げたまはく、〈もし衆生あつて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修し、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じて善本を修習して、その国に生れんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳ならん。つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず、このゆゑにかの国土、これを胎生といふ。{乃至}弥勒まさに知るべし。かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑに。その胎生のものはみな智慧なし〉。{乃至}(浄土真宗聖典註釈版P377)

    ---

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  • #059「「煩悩成就の凡夫(私)」に、何故、煩悩以外の心(ここでは疑情)があるのか?」(頂いた質問)
    2026/07/04

    今回は第58回目を聞かれた方から頂いた質問について話をしました。


    以下、質問メール

    ---

    第58回目を聞いて、浄土真宗では、あまり「自覚(ハッキリした)」という言葉は使わずに、「聞いた」とか「知らされた」という言葉を使うことが分かりました。

    また、浄土真宗では「阿頼耶識」ということは問題にせずに、「煩悩成就の凡夫」が、阿弥陀仏の本願力によって、信心と念仏を回向され、極楽浄土に往生することが分かりました。

    そうすると、「変わり続ける私のいのち」というのは、「煩悩成就の凡夫」のことなのでしょうか?

    また、煩悩しかない私の心に、本願疑惑心(自力の心)があるのは、何故なのでしょうか?


    正信偈には、

    「還来生死輪転家 決以疑情為所止」とありますが、この「疑情」とは、阿弥陀仏の本願を疑う心のことだと思いますが、この「疑情」は、私の心でははく、煩悩以外の他の何か?なのでしょうか?

    今回は、「煩悩成就の凡夫(私)」に、何故、煩悩以外の心(ここでは疑情)があるのか?

    また、生死輪転を繰り返している根本原因は、何故、「無明煩悩」ではなく、「疑情(本願疑惑心)」なのか?

    について、詳しく知りたいです。

    ---


    話の中で出た根拠

    ○浄土真宗辞典より


    疑情 疑いの心のこと。親鸞は阿弥陀仏の本願を疑い自らはからう心とする。「正信偈」には「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす」(註207)とある。→自力心


    自力心 行者自身のはからい。自力によって浄土に往生しようとすることで、これを親鸞は阿弥陀仏の本願を疑う心とした。


    ---

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  • #058「二種深信にあるように『曠劫よりこのかた』の過去世のことまで分かるようになるのですか?」について(頂いた質問)
    2026/06/23

    前回57回目を聞かれた方からの質問です。

    ○質問

    ---

    私には、生まれる前のこと(始まりのない始まりから、生死輪廻を繰り返してきた過去世のこと)は、全く分かりませんが、

    信心獲得すると、教行信証の信巻に書いてある「二種深信」のような、「一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。」ということが、ハッキリと自覚できるのでしょうか?

    もし、自覚できるとしたら、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし」と、自身(私)が曠劫より生死輪廻を繰り返してきたことが分かるような文章の内容が書かれていますが、実際は、信心獲得すると、自分自身が生死を繰り返してきた過去世のことまで分かるのでしょうか?

    また、「自身」と書いてあるように、曠劫から迷いの世界を輪廻してきた「私」(汝)というものが、本当にあるのでしょうか?

    ちなみに、この「私」の意味は、私や他者が認識している私ではなくて、「永遠のいのち」(自己統一的主体)みたいなイメージです。

    最後に、阿弥陀仏の本願は、「阿弥陀さまから見た私」を「只今救うぞ」と、前回のネットラジオでお話をされていましたが、「阿弥陀さまから見た私」を、この私が自覚することが、--本当にできるのでしょうか?

    ---

    ○質問

    ---

    それは、「後生の一大事と信心獲得について」です。

    信心獲得すると、一体、私の何がお浄土に生まれて仏に成るのか?について知りたいです。

    私は、仏教の唯識で言われる「私の阿頼耶識」が、流転輪廻を繰り返していて、常に変わり続けながら、六道輪廻を抜け出せずに、迷い苦しんでいるのではないか?と考えています。

    浄土真宗では、一体、私の何が、極楽浄土に生まれて成仏すると教えられているのか?について知りたいです。

    ---


    話の中で出たご文

    ○教行信証信文類

    一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。


    ○教行信証証文類

    しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、即のときに大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。

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    ---

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  • #057「阿弥陀仏は一体、私の何を救って下さるのか?」について(頂いた質問)
    2026/06/12

    以下の質問について話をしました。

    ーーー

    (略)

    ここで、根本的なお尋ねがあるのですが、阿弥陀仏は、一体、私の何を救ってくださるのでしょうか?

    私の肉体は、死んだら無になります。意識も無くなります。

    仏教では、目に見えない「魂」や「霊魂」などの存在も認めないと聞いたことがあります。 では、一体、仏教は何を問題にして、生死輪廻を繰り返している私の正体(本体)は何であり、阿弥陀仏は、「只今私を救う」と仰っているけれども、一体私の何を救ってくださるのか?が分からないので、

    今回は、一体、阿弥陀仏は、私の何を救ってくださるのか?

    生死輪廻を繰り返している「この私」とは一体何者なのか?

    そもそも、仏教は何を問題にしているのか?

    について、ネットラジオ版安心問答でお話をしていただけると有り難いです。

    よろしくお願いします。

    ーーー

    ○話の中で出した話

    ・慧能禅師のエピソード

    「善を思わず、悪を思わず、正に恁麼の時、いかなるか是れ、明上座、父母未生前の本来の面目」


    ・なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ(二河白道の譬え)

    ----

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  • #056「教行信証の総序に書いてある「たまたま行信を獲る?」や「弘誓の強縁が多生にも値ひがたく、億劫にも獲がたい?」、親鸞聖人は、なぜ、「遠く宿善を慶べ」ではなく、「遠く宿縁を慶べ」と言われたのか?」について
    2026/06/06

    今回は以下の質問について話をしました。


    ーーーー

    教行信証の総序に、「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に不蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。」

    とありますが、

    この「行信を獲る」のは、「たまたま」なのでしょうか?(私は、「たまたま」の意味を、偶然とか、運が良く、などの意味で考えています。)

    もし、「たまたま」が偶然とか、運が良く、などの意味であれば、宝くじに運が良く大当りしたみたいに、思えてしまいます。


    また、「弘誓の強縁が多生にも値ひがたく、億劫にも獲がたい」のであれば、今生で阿弥陀仏に救われるのは無理なのかなぁ?

    と、心が折れ、あきらめの境地になってしまいます。


    さらに、「遠く宿縁を慶べ」とありますが、これは、「宿善」ではなく、「宿縁」と親鸞聖人が書かれているのは、何か深い意味があるのでしょうか?


    これらの教行信証の総序に書いてある「たまたま行信を獲る?」や「弘誓の強縁が多生にも値ひがたく、億劫にも獲がたい?」、親鸞聖人は、なぜ、「遠く宿善を慶べ」ではなく、「遠く宿縁を慶べ」と言われたのか?

    について、ネットラジオ版安心問答でお話しを聞かせていただきたいです。

    ーーーー


    ○話にでたご文


    穢を捨て浄を欣ひ、行に迷ひ信に惑ひ、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もつぱらこの行に奉へ、ただこの信を崇めよ。ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。

    たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられば、かへつてまた曠劫を経歴せん。誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(教行証文類・総序・P132)


    ○悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。(化身土文類・浄土真宗聖典註釈版P412)


    ----

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  • #055「阿弥陀仏の本願は、「ただ今救う」本願ですが、「ただ今救う」と今聞けていないのは、まだ、私の機が熟していないからでしょうか?」(頂いた質問)
    2026/05/30

    今回は以下の質問について話をしました。

    ーー

    第54回目を聞いて、阿弥陀仏の救済と「宿善」の関係については、「宿善」は阿弥陀仏の調育(調熟)の光明(智慧)のはたらきであり、一人一人違う未熟の機を調育して、本願を素直に疑い無く聞ける身に育ててくださることが分かりました。


    しかし、そうすると、やはり阿弥陀仏の調育の光明によって、私の機が熟して、本願を疑い無く聞けるようになるには、機が熟すまでの時間がかかるように思えてしまいます。


    阿弥陀仏の本願は、「ただ今救う」本願ですが、「ただ今救う」と今聞けていないのは、まだ、私の機が熟していないからでしょうか?


    また、阿弥陀仏の本願は、短命の者や無常迅速の機をお目当てにしていると聞いているのですが、もし機が熟さないと、信心獲得できないとしたら、臨終の者は、どうなってしまうのでしょうか?


    口伝鈔に、以下の文言がありましたので、今回は、短命の根機(無常迅速の機)と阿弥陀仏の調育の光明の関係について、またネットラジオ版安心問答でお話しを聞かせて頂きたいです。

    よろしくお願いします。

    ーー


    話のなかで出たご文


    ○そのゆゑは如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機、いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。

    そのゆゑは願(第十八願)成就の文(大経・下)には、「聞其名号 信心歓喜 乃至一念 願生彼国 即得往生 住不退転」と説き(口伝鈔・浄土真宗聖典註釈版P911)


    ----

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  • #054「現世(今生)で救われる人と、来世(未来世)で救われる人が出てきてしまうのは、やはり「宿善」の厚薄が関係しているのでしょうか?」(頂いた質問)
    2026/05/23

    今回は、以下の質問について話をしました。

    頂いた質問

    --

    第53回目のネットラジオ版安心問答を聞いて、阿弥陀仏の側で、この人は好きだから早く救おうとか、この人は嫌いだから救うのは遅くしようとか、そういった差別はないことが分かりました。


    そこで、また重ねてお尋ねがあります。

    阿弥陀仏の側で救いの差別はしていないけれども、現世(今生)で救われる人と、来世(未来世)で救われる人が出てきてしまうのは、やはり「宿善」の厚薄が関係しているのでしょうか?


    浄土真宗辞典で「宿善」について調べたら、①過去世に積んだ善根のこと。

    ②宿世の善因縁の意で、獲信のための善き因縁のこと、と書いてありました。

    また、「宿善」は浄土真宗では、信心を得る縁となる阿弥陀仏の調育のはたらきであるとすると書いてありました。


    さらに「宿善の開発」を同じく浄土真宗辞典で調べたら、信心を得るための過去の善き因縁が熟して、信心が開けおこること、と書いてありました。


    そうすると、早く信心獲得できるかできないかは、「宿善」が厚いか?薄いか?に拠る所が大きな要因になると、この浄土真宗辞典では読めてしまうのですが、

    実際の所は、この「宿善」が信心獲得の大きな要因になるのでしょうか?

    また、もし「宿善」の厚薄が阿弥陀仏の救済の因縁であるとするならば、たくさん善い行いをしたり、たくさん念仏を称えたり、たくさん聴聞をしたほうが、早く阿弥陀仏の救済に遇えると考えてしまうのですが、実際はどうなのでしょうか?


    今回は、この阿弥陀仏の救済と「宿善」の関係について、またネットラジオ版安心問答でお話しを聞かせていただけると有り難いです。

    --


    ○話の中ででたご文

    一 光明・名号の因縁といふ事。

     十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

    (略)

    また光明寺(善導)の御釈(礼讃)には、「以光明名号摂化十方 但使信心求念」とものたまへり。

     しかれば往生の信心の定まることはわれらが智分にあらず、光明の縁にもよほし育てられて名号信知の報土の因をうと、しるべしとなり。これを他力といふなり。(浄土真宗聖典註釈版P874)


    ○鎮西派・聖光房弁長(弁阿)上人「浄土宗名目問答」

    このこと極めたる僻事なり。そのゆえは、全く他力を憑みて一分も自力なしということ、道理としてしらるべからず。自力の善根なしといえども他力によって往生を得るといはば一切の凡夫の輩、いまに穢土に留まるべからず。みなことごとく浄土に往生すべし。(浄土宗全書10・ P410)

    ----

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