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#061 「本願を疑惑するのと、本願の内容の意味が分からないのは、同じなのでしょうか?」(頂いた質問)

#061 「本願を疑惑するのと、本願の内容の意味が分からないのは、同じなのでしょうか?」(頂いた質問)

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○今回は以下の質問について話をしました。

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浄土真宗の信心は、「仏願の生起本末を聞いて疑心あることなし」ですが、

私には、仏願の生起である、「無常」や「罪悪」が分からず、煩悩悪業によって、流転輪廻していることも分からず、また「後生の一大事」と聞いても、驚きも立たずに、何とも思いません。

また、阿弥陀仏が私一人を救うために、五劫思惟の願や、兆載永劫の行をされて、私を救うための手段として「南無阿弥陀仏」が完成されて(仏願の本)、その本願の名号である「南無阿弥陀仏(念仏の信心)ひとつで救われる」(仏願の末)と聞いても、意味が分からないのですが、これらのことは、本願を疑惑していることになるのでしょうか?

私は、本願を疑惑するというよりも、仏願の生起本末の内容の意味が分からないのです。

本願を疑惑するのと、本願の内容の意味が分からないのは、同じなのでしょうか?

また、本願疑惑心が無くなると、仏願の生起本末の内容の全てに対して、塵露ほどの疑いも無くなるのでしょうか?

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○話の中で出した御文

ここをもつて、いま大聖(釈尊)の真説によるに、難化の三機、難治の三病は、大悲の弘誓を憑み、利他の信海に帰すれば、これを矜哀してこれを憐憫して療したまふ。たとへば醍醐の妙薬の、一切の病を療するがごとし。濁世の庶類、穢悪の群生、金剛不壊の真心を求念すべし。本願醍醐の妙薬を執持すべきなりと、知るべし」(教行信証信巻・浄土真宗聖典註釈版P296)

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⁠⁠安心問答ー浄土真宗の信心について⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠

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