#059「「煩悩成就の凡夫(私)」に、何故、煩悩以外の心(ここでは疑情)があるのか?」(頂いた質問)
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今回は第58回目を聞かれた方から頂いた質問について話をしました。
以下、質問メール
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第58回目を聞いて、浄土真宗では、あまり「自覚(ハッキリした)」という言葉は使わずに、「聞いた」とか「知らされた」という言葉を使うことが分かりました。
また、浄土真宗では「阿頼耶識」ということは問題にせずに、「煩悩成就の凡夫」が、阿弥陀仏の本願力によって、信心と念仏を回向され、極楽浄土に往生することが分かりました。
そうすると、「変わり続ける私のいのち」というのは、「煩悩成就の凡夫」のことなのでしょうか?
また、煩悩しかない私の心に、本願疑惑心(自力の心)があるのは、何故なのでしょうか?
正信偈には、
「還来生死輪転家 決以疑情為所止」とありますが、この「疑情」とは、阿弥陀仏の本願を疑う心のことだと思いますが、この「疑情」は、私の心でははく、煩悩以外の他の何か?なのでしょうか?
今回は、「煩悩成就の凡夫(私)」に、何故、煩悩以外の心(ここでは疑情)があるのか?
また、生死輪転を繰り返している根本原因は、何故、「無明煩悩」ではなく、「疑情(本願疑惑心)」なのか?
について、詳しく知りたいです。
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話の中で出た根拠
○浄土真宗辞典より
疑情 疑いの心のこと。親鸞は阿弥陀仏の本願を疑い自らはからう心とする。「正信偈」には「生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす」(註207)とある。→自力心
自力心 行者自身のはからい。自力によって浄土に往生しようとすることで、これを親鸞は阿弥陀仏の本願を疑う心とした。
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安心問答ー浄土真宗の信心について
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