#060 「本願疑惑心や疑情(疑心)や自力心は、煩悩の一種なのか?」(頂いた質問)
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今回は#059を聞かれた方からの質問です。
○質問
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第59回目を聞いて、「阿弥陀仏の本願と私の関係性が非常に大切」だということは理解できたのですが、本願疑惑心や疑情や自力心が、煩悩だということを聞いて、不審に思いました。
それというのも、親鸞聖人は、以下の文証のように、凡夫の煩悩は死ねまで無くならないと言われているからです。
阿弥陀仏の本願の救いと、煩悩は関係がないと思っていましたが、本願疑惑心や疑情や自力心が、煩悩であるならば、本願疑惑心や疑情や自力心も死ねまで無くならないということになりませんか?
浄土真宗の信心は、「仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし」ではないのですか?
この疑心が煩悩であるならば、疑心は死ぬまで無くならないことになりませんか?
疑心往生説は、異安心だと聞いたことがあるので、
本願疑惑心や疑情(疑心)や自力心は、煩悩の一種なのか?について、お聖教を根拠にして、ネットラジオ版安心問答でお話を聞かせていただきたいです。
よろしくお願いします。
「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず。(一念多念証文)P693
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○話のなかで出したご文
○教行信証信巻
○【65】 しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。(浄土真宗聖典註釈版P251)
○まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。(教行信証信巻・浄土真宗聖典註釈版P230)
○【28】 次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。(教行信証信巻・浄土真宗聖典註釈版P234)
○教行信証化土巻
○そのときに慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、〈世尊、なんの因なんの縁にか、かの国の人民、胎生・化生なる〉と。仏、慈氏に告げたまはく、〈もし衆生あつて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修し、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じて善本を修習して、その国に生れんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳ならん。つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず、このゆゑにかの国土、これを胎生といふ。{乃至}弥勒まさに知るべし。かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑに。その胎生のものはみな智慧なし〉。{乃至}(浄土真宗聖典註釈版P377)
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安心問答ー浄土真宗の信心について
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