『流れのほとりに』のカバーアート

流れのほとりに

流れのほとりに

著者: キリスト教たんぽぽ教会
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キリスト教たんぽぽ教会の礼拝で語られたメッセージ音源です。キリスト教たんぽぽ教会 キリスト教 スピリチュアリティ 聖職・福音主義
エピソード
  • たんぽぽの役割(ヨシュア記21章44節~45節)
    2026/09/06

    序)過去と未来を結ぶ御言葉

    ・聖書が「安息」について語る言葉は 2 つある。1 つは「シャバス」で、とても良い、完成された状態を指す。もう 1 つは「ヌアッハ」で、安息に向けて踏み出すことを指す。ヨシュア記 21 章は「ヌアッハ」である。

    1)「ヌアッハ」が繋ぐ過去と現在

    ・ヌアッハが最初に使われるのが創世記 2:15「人を…エデンの園に置き(ヌアッハ)、そこを耕させ、また守らせた」である。

    ・イスラエルにとっての約束の地は、アダムとエバにとってのエデンの園に相当する。ヌアッハは「あるべきところに置く」という意味をもつ。

    ・「耕させ(アヴァド)、また守らせる(シャマル)」もキイワードで、ヨシュア記では「主に仕え(アヴァド)」「律法を守る(シャマル)」と展開していく。これは神を愛し、隣人を含む世界を愛することである。

    ・さらにマタイ 11:28 で「わたしもとに来なさい、あなたがたを休ませて(=ヌアッハ)…」と展開する。イエス様と共に生きることが「エデンの園」、「約束の地」、「人があるべきところ」である。

    2)根を張り、葉を広げる~個人の場合と共同体の場合~

    ・根を張る(みことばを守り行う:信仰・信頼・確信を深める)なら、雨の恵みが少ないところ(荒野)でも生きることができる。

    ・葉を広げる(主に仕える:奉仕)ことで、神様からの恵みをこの世界を生かすものに変えることができる。

    ・この生き方が個人的に適用されると「永遠のいのち」、共同体を中心に世界に出現すると「神の国」となる。

    ・個人は「樹木」のようにじっくり実を結び、共同体は「草花」のように枯れて、萎んで、また生えてくる。

    3)「安息」の完成される未来

    ・ヨシュア記 21 章は、約束の地の全域に民が部族ごとに離れ離れになって暮らし始める「割り当て(ヌアッハ)」が終わった部分。その中で特徴的なのは「レビ人の町」と「逃れの町」である。当時の世界観でいえば、ここで神を讃え、神が鎮座する神殿が建設されるのが筋。しかし…

    ・レビ人の町と逃れの町が造るネットワークそのものが、神殿の機能を果たすことで、全地が主の臨在で満ちることがゴール。これが黙示録 21章の最後のビジョンにつながる。

    結)たんぽぽの役割

    ・教会は誰でも歓迎するが、集う人・歴史によって個性が出るゆえに、誰にでも喜ばれるとは限らない。たんぽぽの個性を深め、ネットワークの中で生きることが願われている。

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    41 分
  • 戦争がやむために(ヨシュア記11章20節,23節)
    2026/08/30

    序)キリスト教会が平和を語るために

    ・戦争と無縁(負い目のない人)でなければ平和を語ることができないわけではないが、戦争を肯定するように読める「ヨシュア記」の存在が問題を複雑にしている。

    ・「聖絶」は、神様と民の間の関係を損なうものを、使用禁止にすることだが、それでも戦争の存在を払拭できない。

    1)「主から出たことであった」という慣用句の意味

    ・この表現は旧約聖書の中で繰り返し使われる。(Ⅰ列王 12:15 、Ⅱ歴代22:7、25:20他)そこで共通していることは、起こった出来事を肯定することではなく、むしろ肯定できないのだが、もっと悪い事態にならないように神様が用いたということを語っている。

    ・これは医療用語でいう「ダメージコントロール(大けがをした患者に対し、完璧な治療ではなく命を救うための最低限の処置)」に相当する。

    ・つまり「主から出たこと」と書く時点でヨシュア記の著者が戦争に向けるまなざしは否定的である。

    2)神の本来の計画を乱したヨシュアの策略

    ・ヨシュア記 2:1「ひそかに」が問題の発端である。偵察行動が明るみに出れば、それは軍事的一手である。これに加え、偵察が誓ったラハブとの契約により、ラハブ救出の義務も生まれた。エリコの城壁が崩れる話は、神様の本来の計画にあったのではなく、ダメージコントロール。

    ・出エジプト記 23 章に示された当初の計画は「徐々に追い払う」こと。神様が全地の主として誰がどこに住むかをお決めになる。

    ・イスラエルは戦わずともギルガルで暮らすことができていた。戦わなくては土地を獲得できないと考えるのは人間の(ヨシュアの)常識であり、その常識がヨシュア記の読み方まで誘導してしまう。

    ・23節の「奪い取った」も「受け取った」と訳せる。しかし文脈は確かに奪い取るようである。神様のタイミングを待てなかった結果である。

    3)与えられた「相続地」でどう生きるかが問われている

    ・すべての人に生きる「場(相続地)」が与えられている。広がることは可能性としてあるものの、まずは神の賜物と受け取り(受容)そこで愛に生きる(御言葉を行う:神、隣人、世界に対して)こと。

    ・与えられた相続地に満足できない時、戦争が始まってしまう。このパターンはアダムとエバからずっと続いている。唯一、イエス様の十字架と復活(福音)だけが、ダメージコントロールではなく根本治療を行える。

    結)「置かれたところで、咲きなさい」に続くもの

    ・どんな荒地の下にも流れている地下水まで根を伸ばすのが平和への道。

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    47 分
  • 神の約束を生きる(創世記15章1節~7節)
    2026/08/23

    序)

    ・前回はアブラムが迷いながらも、神様を礼拝し続けたことを見ました。

    ・今日は、神様がくださった未来を、アブラムがどのように受け取り、歩んだのかを見ます。

    1)「子どもがいない」ことは、アブラムの大きな痛みでした(15 章 2~3 節)

    ・「神様、何をくださるのですか」。これは、もっと欲しいという不満ではありません。「私の人生は、この先どこにつながるのでしょうか」という、心からの問いでした。

    ・家族の死、途中で止まった父の旅、ロトとの別れ。そんな経験をしてきたアブラムにとって、跡を継ぐ子どもがいないことは、大きな痛みでした。私たちも、言葉にしにくい不安を、神様にそのまま話してよいのです。

    2)神様は、アブラムに未来をくださいました(15 章 4~6 節)

    ・最初に動かれたのは神様です。神様はアブラムを外へ連れ出し、星空を見せて、「あなたの子孫はこのようになる」と約束されました。

    ・信仰とは、何もせずに待つことでも、「きっとうまくいく」と思い込むことでもありません。私たちは、暮らし、働き、考え、選びながら、神様の約束を忘れずに歩みます。日々の選択の中で「これでよかったのかな」と振り返ることもあります。アブラムたちが選び取ったことの中には痛みもありました。しかし、神様は約束を取り下げませんでした。

    3)神様がくださった未来は、神様のものです(22 章 1~19 節)

    ・イサクは、ずっと待ち望んだ子どもでした。アブラハムにとっては、「自分の人生は、この子によって未来につながっていく」と思える存在でした。

    ・でも、イサクはアブラハムの所有物ではありません。問われたのは、イサクを握りしめるのか、それともイサクをくださった神様を信頼し、忠実に歩むのか、ということでした。アブラハムは、神様なら死者からもよみがえらせることができると信じ、イサクを神様にゆだねました。

    結)イエス様から目を離さない(ヘブル 12 章 1~2 節)

    ・十字架の苦しみの中でも、父なる神様を信頼し続けたイエス様を見上げましょう。

    ・そして私たちには、私たちを雲のように取り巻いている、信仰の証人たちが数多くいます。そしてあなたも、だれかにとっての信仰の証人です。互いに励まし合いながら、私たちも神様に忠実に歩んでいきましょう。

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    55 分
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