『戦争がやむために(ヨシュア記11章20節,23節)』のカバーアート

戦争がやむために(ヨシュア記11章20節,23節)

戦争がやむために(ヨシュア記11章20節,23節)

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序)キリスト教会が平和を語るために

・戦争と無縁(負い目のない人)でなければ平和を語ることができないわけではないが、戦争を肯定するように読める「ヨシュア記」の存在が問題を複雑にしている。

・「聖絶」は、神様と民の間の関係を損なうものを、使用禁止にすることだが、それでも戦争の存在を払拭できない。

1)「主から出たことであった」という慣用句の意味

・この表現は旧約聖書の中で繰り返し使われる。(Ⅰ列王 12:15 、Ⅱ歴代22:7、25:20他)そこで共通していることは、起こった出来事を肯定することではなく、むしろ肯定できないのだが、もっと悪い事態にならないように神様が用いたということを語っている。

・これは医療用語でいう「ダメージコントロール(大けがをした患者に対し、完璧な治療ではなく命を救うための最低限の処置)」に相当する。

・つまり「主から出たこと」と書く時点でヨシュア記の著者が戦争に向けるまなざしは否定的である。

2)神の本来の計画を乱したヨシュアの策略

・ヨシュア記 2:1「ひそかに」が問題の発端である。偵察行動が明るみに出れば、それは軍事的一手である。これに加え、偵察が誓ったラハブとの契約により、ラハブ救出の義務も生まれた。エリコの城壁が崩れる話は、神様の本来の計画にあったのではなく、ダメージコントロール。

・出エジプト記 23 章に示された当初の計画は「徐々に追い払う」こと。神様が全地の主として誰がどこに住むかをお決めになる。

・イスラエルは戦わずともギルガルで暮らすことができていた。戦わなくては土地を獲得できないと考えるのは人間の(ヨシュアの)常識であり、その常識がヨシュア記の読み方まで誘導してしまう。

・23節の「奪い取った」も「受け取った」と訳せる。しかし文脈は確かに奪い取るようである。神様のタイミングを待てなかった結果である。

3)与えられた「相続地」でどう生きるかが問われている

・すべての人に生きる「場(相続地)」が与えられている。広がることは可能性としてあるものの、まずは神の賜物と受け取り(受容)そこで愛に生きる(御言葉を行う:神、隣人、世界に対して)こと。

・与えられた相続地に満足できない時、戦争が始まってしまう。このパターンはアダムとエバからずっと続いている。唯一、イエス様の十字架と復活(福音)だけが、ダメージコントロールではなく根本治療を行える。

結)「置かれたところで、咲きなさい」に続くもの

・どんな荒地の下にも流れている地下水まで根を伸ばすのが平和への道。

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