エピソード

  • 大いなる方に生かされた歩みへ(エレミヤ書10章11節~25節)
    2026/02/22

    序)四旬節(レント・受難節)の歩みの始まり

    ・2 月 18 日の「灰の水曜日」を経て、イースターへ向かう四旬節に。

    ・エレミヤとイエス:「涙の預言者」エレミヤの受難の姿にイエス・キリストの受難を重ね合わせる。

    1)偽ものの神々が祀られた地で(1 節~15 節)

    ・天のしるし(天文現象)や立派に飾られた偶像に心を奪われる民。

    ・人の手で釘付けしなければ倒れてしまう、命なき「動かぬもの」への恐れ。

    ・主こそが、知恵と力をもって天と地を造られた「生ける神」「とこしえの王」

    ・11 節だけアラム語:全領域に届く共通語で語られた「天と地を造らなかった神々は滅びる」という力強い断言。

    2)エレミヤの嘆き悲しみ(12 節~21 節)

    ・万物の素材(金、銀、木)さえも造られた主のわざ。

    ・三度の「ヘベル」: 偶像を「空しい(ヘベル=息、はかなさ)」と切り捨てるエレミヤ。伝道者の書を連想させるこの言葉は、虚無の中でこそ「創造主を覚え、神の戒めに生きよ」という招きである。

    ・預言者の共感と痛み:裁きの現実(捕囚の備え)を前に、エレミヤは傍観せず、民の病と痛みを「自分のもの」として背負う。

    ・この姿に、全人類の罪と痛みを負われた主イエスの十字架が予示されている。

    3)人の歩みは主によって確かにされる(22 節~25 節)

    ・北からのざわめきが現実となり、町が荒れ果てようとしている。

    ・信仰の告白:「人間の道はその人によるのではない」(23 節)。自分の歩みを確かにできるのは主のみであるという徹底した信頼。

    ・公正(ミシュパート)への願い:感情的な怒りではなく、神の「公正(掟・契約)」に基づく懲らしめを求める。

    ・それは単なる罰ではなく、その先にある「回復」と「平安」を見据えた、愛ゆえの祈りである。

    結)大いなる方に生かされた歩みへ

    ・私たちもまた、日々の恐れや偶像に飲み込まれそうになる「民」の一員

    ・だからこそ、聖霊の助けと信仰の仲間が必要であり、目に見えない主の臨在を心に留める。

    ・創造主を知らぬ地にあって、神の愛から発する「痛み」を分かち合い、隣人に心を配る者でありたい。

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    32 分
  • 時空を超えた賛美の中に(ヨハネの黙示録5章11節~14節)
    2026/02/15

    序)心沈む時に

    ・神様の臨在は、賛美の場に現される。(Ⅱ歴代誌 5:13 参照)

    ・御言葉に教えられて、生み出される賛美のことばに「アーメン」と言える経験が深まることで、賛美は霊的に引き上げられる。

    ・賛美は、神への献げものであると同時に、隣人への奉仕・宣教である。

    1)天における賛美に招かれている私たち

    ・賛美の中心以外に、三位一体の神にふさわしい場はない。

    ・創造のみわざに思いを巡らすなら、賛美が生まれる。

    ・「栄光と誉れと力」は王国の王に与えられるもので、これを受けるにふさわしいとは「あなたこそ世界の王」であるという信仰告白である。

    2)賛美の秘密に招かれている私たち

    ・4 章 11 節の賛美と 5 章 13 節の賛美はこだましている。4 章は父なる神と聖霊に向けて、5 章は聖霊と共に御子が登場し、賛美が増し加わる。

    ・「誉れと栄光と力」に先立ち「賛美(ユーロギア)」が加わる。

    ・ユーロギアは、神をほめれば「賛美」で、人をほめれば「祝福」になる。子羊の贖いのみわざによって「ユーロギア」が回復されたことが描かれる。創造された世界は、人の堕落によって激しい涙が覆う世界になってしまったが、子羊によって「賛美」が回復された。

    ・神に祝され、神を賛美し、神に祝福され、神を讃える永遠の循環の中に生かされるようになった。

    3)賛美の中心に招かれている私たち

    ・「アクシオス!(あなたこそふさわしい!)」という賛美は、ローマ皇帝を礼拝する賛美の常套句。これを替え歌にして、本当に礼拝されるべき方に向けて宣言している。

    ・「力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美」は 7 つ(完全数)数えられている。あらゆる善き物を表している。そして、子羊がもつすべてのものを、私たちはキリストにあって持っている。

    ・御使いたちの賛美を、子羊の懐で、自分に向けられた賛美のように聞くことが許されている。

    結)天の賛美のもう一つの源

    ・この歌には、Ⅰ歴代誌 29:10~12(神殿建設に備える歌)が凝縮されている。私たちはこの託された使命を受け取り、完成を先取りして歌う!

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    40 分
  • 神の国が来ない理由(ヨハネの黙示録5章7節~10節)
    2026/02/08

    序)古代ユダ王国の即位式(王の就任式)と黙示録の比較

    ・旧約:冠、巻物、油注ぎ→(角笛)→「王様万歳!」となっていた。

    ・黙示:勝利、巻物、聖霊【七つの目】→「王様万歳」?⇔「新しい歌」

    ・黙示録の即位式は、旧約の儀式をマイナー・チェンジしている。

    ・角笛と「王様万歳」に相当する賛美は、11 章 15 節~17 節まで先延ばしになっている。

    1)新しさ①:神の国はイエス様一人が王ではない!

    ・王の即位式の中に「子羊に贖われた者たちが地を治めるために任命され、派遣されること」が加えられている。

    ・神の国は、聖徒たちが共に治める世界であり、ダニエル書7 章で啓示されていたことである。

    →ダニエル 7:13~14「人の子のような方」が王になる幻は、18節、27 節で「聖徒たちが国を受け継ぐ」「国と、主権と権威は、…聖徒である民に与えられる」と解説されている。これが一人の王がいてピラミッド型の世界を形成する「獣の帝国」との根本的な違い。

    ・人が人を支配することがない世界「互いに仕え合い、従い合う」世界

    2)新しさ②:神の国はイスラエルだけが対象でもない!

    ・贖いの対象は「すべての部族、言語、民族、国民の中から」である。

    →「すべての部族」とは、イスラエル十二部族を思わせる表現。

    →「言語、民族、国民(文化的区別)」は異邦人を指す(ダニエル書由来)。

    →子羊(イエス・キリスト)は、誰をも迎え、誰も贔屓しない「いと高き神の聖徒たち」=教会を贖い出した。

    3)贖いとは、「神の国司(神のかたち)」としての立場の回復である。

    ・「王国とし、祭司とする」とは 1 章 5 節~6 節で先取りされていた。治められる臣民になることでも、宗教的なことばかりをする者のことでもなく、神の国府の要人、国司(今でいえば、首相補佐官に相当)のことである。

    結)神の国が来ない理由

    ・ネガティブな意味では、教会が、祈りと賛美だけで「待つ」のでは、神の国は来ない。聖霊とともにこの世界に派遣され、この地を治めることなしに、神の国は来ない。

    ・ポジティブな意味では、イエス様がひとり先にゴールするお方ではなく、私たちと共にゴールするために忍耐していてくださっているから。

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    42 分
  • 天と地をつなぐもの(ヨハネの黙示録5章6節~8節)
    2026/02/01

    序)三位一体の神のイメージ表現

    ・父なる神…「御座に着いておられる方」…この世界を治める者を探す方

    ・子なる神…「屠られた姿で立っている子羊」…本当の勝利者

    ・聖霊なる神…4 章 5 節「七つのともしび(トーチ)」…炎だけで永続する永遠性を帯びた神。七は「完全」「すべて」を意味する。

    1)「七つのともしび」がもつ旧約聖書の背景①

    ・「七つのともしび」は神殿に置かれていた七枝の燭台(ランプスタンド)の、火の部分だけ取り出した格好に見える。

    ・「燭台」は教会の象徴だと 1:20 で明示されている。

    ・天(御座の前)にある「ともしび」は燭台である「教会」に宿る。

    2)「七つのともしび」がもつ旧約聖書の背景②

    ・「七つのともしび」という表現は、ゼカリヤ書 4:1~10 の幻を下敷きにしている。1 節「眠りから覚まされた」=明るさに眩しさを感じている=燭台に火がついていることを婉曲的に示す。

    ・ゼカリヤの幻の意味は『権力によらず、能力(腕力)によらず、わたしの霊(聖霊)によって』という言葉に集約される。

    ・ゼカリヤ書ではゼルバベル(神殿再建のリーダー)への言葉である。神殿は天と地をつなぐものであり、その再建は、聖霊によってなされる。聖霊が、人々の目を覚まさせ、心を燃やして立ち上がらせる。

    3)屠られた子羊に宿る「七つの目」

    ・4 章で「七つのともしび」がいる位置に 5 章では「屠られた子羊」が登場する。「七つのともしび」はいなくなるように思えるが「七つの目」として子羊と一体化して描かれる。

    ・「七つの目」は「全地に遣わされた」と形容されるが、これもゼカリヤ 4:10を背景にしている。さらに第二歴代 16:9 がその背景にあって、全地をご覧になる神が、神の力を注ぐにふさわしい人を探すというイメージである。

    結)いかにして、私たちは聖霊の力を受けることができるのか。

    ・8 節は竪琴(賛美)香(祈り)を携えて「ひれ伏す」礼拝を意味する。

    ・「ひれ伏す」とは相手の力を認めて、すべてを差し出すこと(賛美)と自らが無力であることを認めてへりくだること(祈り)。

    ・天と地をつなぐのは、真実/真剣な礼拝。それは神に大きな期待を寄せ、神の力なしには成し得ない愛の覚悟を背負うところに成立する。

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    36 分
  • 【住】主とともに住む平安を(ヨハネの福音書14章1節~4節)
    2026/01/25

    序)聖書における「住む」

    ・聖書には約 20 種類、1500 回以上の「住む」に関わる言葉が登場する。

    ・人間が最初に住んだ場所は「エデンの園」:創世記 2:8

    ・堕落した時から、私たち人間は、平安と安全な場所である「住む所」を失っている。

    1)人々のただ中に住まわれた父なる神様

    ・天幕生活からカナンの地に定住したイスラエルの人々。しかし、人々は常に安住の地を求め続けている。

    ・しかし、神様は人間と関わり続けてくださった。神様や幕屋と神殿を通して、民のただ中に住まわれた。:出エジプト29:45、Ⅰ列王 8:13

    ・「神様とともに住みたい」という思いが、人間の神様への“恐れ”を失わせることがある。

    ・しかし神様は、人間がつくったものではなく、神様ご自身が選び集めた人々の間に来てくださり、住んでくださる。

    2)父の家を備えるために来られたイエス様

    ・第二神殿には戻らなかった神様の栄光は、イエス様にあった。ヨハ 1:14

    ・イエス様は弱さと貧しさの世界に住まわれ、救いと平安を宣べ伝えた。

    ・そのイエス様は、天に昇られる宣言をする。それは弟子たちを見捨てるのではなく、ともに住む父の家を用意しに行くためであった。

    ・神様と人間の関係の完全な回復の後、私たちは父の家に招かれ、永遠に神様とともに住むことができる。それは、恵み、平安、希望である。

    3)今の時、私たちと教会に住まわれる聖霊

    ・弟子たちは救いを宣べ伝え、平安を広げる使命を与えられた。キリスト者も同じように世界に平安を広げていく使命がある。

    ・私たちがその使命を担うことができるのは、聖霊が私たちと教会に、ともに住んでくださっているからである。

    ・私たちは愛をもって隣人と関わることの難しさに失望しそうになる。しかし、聖霊によって少しずつ、弱さに寄り添うことができる者へと変えられる。

    結)主とともに住む平安を私たちに与えられ、そして私たちは担う

    ・幕屋と神殿に住まわれた父なる神様。人となって地上に住まわれた主イエス様。そして、キリスト者と教会のうちに住まわれている聖霊。

    ・私たちは神の国の完成を待ち望み続けたい。神様が願われていたことの実現であるから。

    ・また、イエス様が父の家を備えていることを仰ぎ見つつ、私たちは今遣わされている場所で、「平安のある住まい」を広げていきたい。

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    30 分
  • 勝利の再定義(ヨハネの黙示録5章5節~7節)
    2026/01/18

    序)黙示録5 章の意味と文脈

    ① 1 節「御座に着いておられる方」の右手にある巻物…神の国の王を探す神。「七つの封印」は遺言書testamentを連想させる。

    ② 神の国の王になる者がいないという悲惨が「ヨハネの涙」の象徴

    ③ 神の国の王にふさわしい者=イエス様と礼拝によって出会える。

    ④ 私たちも神の国の王子、王女としてイエス様とひとつになる。

    1)「勝利」がつなぐ「7つの手紙」と5章

    ・「勝利」というキイワードは、王を探すストーリーに適合する。「勝利者が王になる」というのは一般的である。

    ・「勝利」は黙示録 2~3 章で展開された「7 つの手紙」の結論に出て来る約束と関係している。3章21節が5章との接続点。

    ・イエス様の得た勝利にならって、教会も勝利を得よと招かれる。

    →イエス様が得た勝利とは何なのかという疑問が5章以降で展開される。

    2)聞こえてくる「軍事的リーダー」の象徴

    ・黙示録に描かれる神が導く暴力的な表現は、神のためには暴力も厭わず、神ご自身が最終的に圧倒的な力で悪を滅ぼすという言説を導いてきた。現在も、この延長線上に国際政治が展開されている部分がある。

    ・「ユダ族から出た獅子」とは、創世記 49 章 8 節~10 節を背景にし、ダビデによって具現化された軍事的リーダーの象徴である。

    ・「ダビデの根」とは「ダビデ王朝が切り倒された後に残った『切り株』から出て来る新芽(=ひこばえ)」のことを指す。イザヤ 11:1 参照

    3)「聞いたこと」と「見たこと」のギャップによる展開

    ・「獅子が勝利した」とヨハネは「聞かされる」が、彼が「見た」のは「屠られた姿で立っている子羊」だったという点に意図的なメッセージがある。

    ・「獅子」から「子羊」にシンボルを置き換えることで、勝利の再定義を読者に促している。戦いは「軍事的」ではなく「霊的」なものである。(ただし、「霊的」というのはふわふわした”宗教的なもの”ではなく、極めて現実的なものであることに注意。)

    結)私たちの「勝利」とは何か~聖霊に導かれて問い続けよう。

    ・物事の見た目が、私たちの思惑通りになることが「勝利」ではない。

    ・神の国が広がるとは、聖書的価値観が暴力や、権力や、説得力などによって押し付けられていくことではない。

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    35 分
  • 激しい涙をぬぐうために(ヨハネの黙示録5章2節~6節)
    2026/01/11

    序)人間は「泣く生き物」

    ・しっかり泣いた人が、本当に笑える。元気に泣く子は感情豊かに育つ。

    ・「感じるな」という禁止令が幼少期に刷り込まれると泣けなくなる。

    ・5 節「泣いてはいけません」は「泣かなくてよい」という意味である。

    1)ヨハネの涙が象徴するもの

    ・「涙」「泣くこと」は、この世にある悲惨の象徴であり、文字通りに「目から涙がなくなること」ではない。

    ・ヨハネは、預言者たち、名も知られぬ聖徒(詩人)の涙を代表する象徴的存在として幻の中にいる。彼らは、目の前で滅びゆく民、崩壊する社会、そこに救いをもたらす神と神のことばに背く愚かさに泣いていた。

    ・「巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者が見つからない」とは、神に倣って地を治める神のかたちとして生きる人間がいないということ。

    2)巻物を開く者、見続ける者を探し続ける神

    ・「天」「地」「地の下」は 3 つ組で「この世界」を表現する。天に属する人とは王族・貴族、地に属する人とは庶民、地の下に属する人とは故人を指すことが可能。いずれにしても誰も神の呼びかけに応えられない。

    ・「巻物を開く」と「巻物を見る」は同じことの言い換えではない。「巻物を見る」は「見続ける」というニュアンスで「理解するために、注意を払い続ける」ことを指す。

    ・ここで描かれるのは旧約時代でもあり、黙示録が書かれた当時でもあり、時空を超えた「今」である。

    3)「泣かなくてよい」理由

    ・「立っている」は完了形。立ち上がる動作が決定的に完了し、効果が継続している。これはよみがえりの象徴である。「屠られた」も完了形。これは十字架のみわざを象徴している。「七つの角」は「完全な力」を表現する。

    ・この子羊を見出すとき、激しい涙はぬぐわれる。それはこの世界を探しても見つからない。天のさらに上におられるから。

    ・天を仰ぐとは、礼拝すること。子羊は、四つの生き物と二十四人の長老の真ん中(4章の礼拝の光景が呼び覚まされる)に見出される。

    結)激しい涙をもって神に近づこう

    ・①神の国ではない世界をあきらめず、心を動かそう。②涙をもって礼拝しよう。③封印を開くキリストに信頼し、神のことばを見続けよう。

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    37 分
  • キリストが開く神のことば(ヨハネの黙示録5章1節~5節)
    2026/01/04

    序)ヨハネの黙示録はピンチの教会に向けた手紙

    ・「神の国が来る」とは信じられない状況に応答して書かれている。

    ・黙示録は天を見上げるための「窓」のような働きをする。

    ・「天」が異次元の世界だから、象徴的な言葉を使うしかない。

    1)「御座に着いておられる方」

    ・「御座」は「王座」のことで「座っている」ということは、立場が脅かされず、仕事がきちんと果たされていることを示す。

    ・古代世界では、王様にお目にかかる機会というのは民衆にはあり得ないことだった。父なる神と贖われた私たちはこのあり得ない関係に招かれている。隔てるベールのようなものは存在しない。

    2)「右の手」にある「巻物」

    ・「右の手」は「義の力」の象徴である。出エジプト記 15 章 6 節(力の象徴としての右手)、詩篇 48篇 10 節(義の象徴としての右手)が背景の一つ。

    ・「御座に着いておられる方」の「右の手」にあり得そうなのは「杖」のイメージだが、代わりに「巻物(ビブロス=Bibleの語源)」が握られている。

    ・「巻物」は「神のことば(聖書)」の象徴である。

    ・「内側にも外側にも字が」書かれているのは、表裏の照らし合わせによって、内容の改竄が起きていないことが確認できるようにされている。

    ・「七つの封印」にはポジティブな意味とネガティブな意味がある。ポジティブに言うと、権威を与え、中身を守る意味である。

    3)「巻物を開き、封印を解くのにふさわしい者」とは?

    ・「巻物の封印」は「偽者には理解できない」ことの象徴としても使われている。イザヤ書 29章 10~11 等が背景の一つ。

    ・創世記からマラキ書まで(黙示録が書かれた時点での「聖書」)を理解して、みこころを行うことができる者=封印を解くのにふさわしい者

    ・その者に、この「巻物(さとしの書)」が渡されるという場面=神の王権が委任され、父なる神の右に座してこの世界を治める王になる。そのための即位式がこの場面の背景である。(Ⅱ歴代 23章、申命記 17章 18節~19節参照)

    結)イエス様が封印を解く「鍵」である!

    ・①この世界の統治は神から委任される。②イエス様のことばと行いを通して聖書は理解できる。③イエス様に助けていただくなら、私たちも巻物を受け取り、この世界を治めることができる。

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    44 分