エピソード

  • 荒れ果てた聖所からの祈り(主の祈り⑥)(マタイの福音書6章12節a)
    2026/07/12

    序)毎日を変える「主の祈り」

    ・「私たちの日毎の糧を、真に人を生かすもの(エピウーシオス)として、今日、私たちにお与えください」と祈る時、人生は変えられる。

    1)隠された接続詞の重大性

    ・「私たちの負い目を~」と始まる文の先頭に kai(英語で言えば and)という接続詞があるが、翻訳されていない。

    ・「御名」「御国」「御心」「私たちのパン」までは kai は存在しない。これは「私たちのパン」と「負い目の赦し」さらに「試みや悪からの救い」までがセットであることを示す。(段階的発展があるとも言える。)

    →「エピウーシオス」のパンを食べなければ「私たちの負い目をお赦しください」を祈ることも生きることもできない、ということ。

    2)この祈りを 1000 回を超えて繰り返す意味

    ・「負い目」=「罪」ならば、イエス様を信じた時に、きれいさっぱり赦されて、永遠の義を与えられた(信仰義認)のではなかったか?

    →毎週の礼拝で「お赦しください」と言い続けなければ、赦されない?

    →原理としては赦されているけれど、具体的な罪を赦してもらうため?

    ・福音の中心は「イエス様の十字架と復活による罪の赦し」だが、その目的は、死後に天国に行けない問題を解決するだけではない。「赦し」がもたらす「父なる神との和解」によって与えられる「神の子」の自覚をもってこの世界に生きること(≒神の国に生きる)が中心目的である。

    3)罪(負い目)の赦しの二つの次元

    ・「神様と私の間の罪」の問題は、天国止まりの福音で解決されるもの。

    →「父よ」と呼びかける時点で、これはクリアされていることが前提。

    ・「神様と私たちの間の罪」=罪の社会的・共同体的次元が、主の祈りの眼目である。「私たちの間」に蓄積し、この世界に蔓延している「負い目」が、世界を汚し、神の臨在を遠ざけていることが問題である。

    ・ダニエル書 9 章 8 節~19 節がこの祈りのプロトタイプである。神の民が負い目を抱えているなら、神殿は荒れ果てたままになり、祝福は及ばない。だからこの祈りは「父よ、戻ってきてください」と祈っている。それは当然「なすべきことを行います!」という決意とセットになる。

    結)現代のキリスト教会が抱える「負い目」を覚えて

    ・「なすべきこと」というと義務感が呼び覚まされるが、これは「エピウーシオスのパン」を食べることから生まれる恵みである。

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  • 「日毎の糧」の謎を解く(主の祈り⑤)(マタイの福音書6章11節)
    2026/07/05

    序)「主の祈り」を神のことと人のことに分けてはいけない!

    ・天と地をひとつに結びつけることを目指すのが、主の祈りである。

    1)「日毎の糧(パン)」が主の祈りの中心なのに…

    ・ギリシア語原文では「私たちのパンを、日毎を、お与えください、私たちに、今日」という順序に並んでいる。他の祈りのことばは、動詞が先に来ている。例:「来ますように、御国が」「救ってください、悪から」

    ・主の祈りの 7 つの祈りすべてが「私たちの日毎の糧」にかかっている。

    ・しかし「日毎の糧」という「翻訳」ではこの重みを受け止めきれない。

    ・この意味が間違いだということは紀元 4 世紀のヒエロニムスもわかっていた。彼は「超生存 supersubstantiālem のパン」と訳している。けれども当時の教会からの「わかりやすさの圧力」に屈することになった。

    →その結果、この祈りが山上の説教と矛盾するようになり、私たちの現実としても空洞化するようになっているのではないか。

    2)「エピウーシオス」の意味を求めて

    ・「日毎の」と訳される言葉は、主の祈り(マタイとルカで 1 回ずつ)の中でしか使われず、聖書以外の文献に一切出てこない。

    ・1898 年にエジプトのパピルスに(買い物メモのようなもの)に「エピウーシオス」と書かれたものが見つかり「日毎の」が確定したかのように思われた。しかし 100 年後の再調査でこれは事実誤認だと判明。

    ・これは当時流行っていた造語文化で理解すべき。「エピ(上回る)」+「ウーシオス(生存・財産・生計の手段・人を生かすもの)」で福音書記者によって造られた言葉。「真に人を生かすもの」という意味。

    3)ただ求めるのではなく、ささげて受ける「超生存のパン」

    ・「真に人を生かすパンを、私たちに、今日お与えください」という祈りではない!「私たちのパンを、真に人を生かすもの(=エピウーシオス)として、今日、私たちにお与えください」という二段階の祈り。

    ・「私たちのパン」とは私たちの手元にある「日毎の糧(働いて稼いで食べる日常の営みそのもの)」であり、これを神にささげ「エピウーシオス」なものとして受け取り直すことが、この祈りの核心である。

    結)「真に人を生かす」とは

    ・自分のために食べて消費するのは「ウーシオス」、隣人を生かす歩みのために食べ「小さなイエス」として生きるのが「エピウーシオス」

    ・共にこのパンを食べるイエスの「コパン」が世界を生かす!

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  • 天の呼吸に合わせるために(主の祈り➃)(マタイの福音書6章10節)
    2026/06/21

    序)天の御国の種が「地」で咲くために

    ・「天におられる私たちの父よ」…自分たちの立ち位置を正される。

    ・「(あなたがこの地に置かれた)御名が」…襟を正され成長を促される。

    ・「天の御国が、父の御国が」…種(力・支配・権威)がどこにあり、ゴール(完成)がどこにあるかを知らされる。

    ・「みこころが地で行われる」時、神の国が芽生え、花開き、実を結ぶ。

    1)現代人の「みこころ」についての混乱

    ・「みこころ」とは神様の心に隠されている成功するプラン、失敗しない選択のことだと瞬間的に思う癖が、現代キリスト者に蔓延している。

    ・祈りが「聞く」ことなら「みこころ」を聞き取る方法が、何かあるのではないか、その方法を知りたいと思う人が多い。

    →この類の「みこころ」を聞くというのは、未熟な「願い」に過ぎない。

    ・「みこころの〇〇(結果志向)」というのを止め「みこころに適う〇〇(過程志向)」と言い換えると整理できる。

    ・この数十年で広まった選択の自由が私たちを悩ませ混乱させている。

    2)「みこころ」に適う(知恵ある)選び方とは

    ・「みこころではない」と断言できるのは、聖書で明確に禁じられていること。不正、暴力、短絡的な選びは「みこころではない」

    ・「みこころ」に適う選びとは、よく調べ、よく考え、よく相談すること

    ・「みこころにかなう選び」とは、様々な選択を繰り返しながら、人格的に成熟し、愛と正義と平和を実現する人格を身に着けることである。

    3)「天でなっているように、地でも」の意味

    ・「行われますように」は「生じますように」「なりますように」の方が正確であり、これは創造のことば「光、あれ」と同じ文法である。

    ・聖書(マタイの福音書においても)の中で「天」は単数形と複数形で使い分けがある。単数形は「空」であり、複数形は「神の次元」である。

    ・単数形の「天」は神の創造の定め(みことば)に従っている。同じように「地」にも、とは人間がみことばに従うことによって実現する。

    ・神は私たちの意志を尊重されるから、自分自身で「みこころよ、なれ」と祈るまでは、この創造のことばは働かない。神様は、私たちが父なる神の人格を受け入れる(=聞く)ことを待っておられる。

    結)神の恵みを深呼吸して祈ろう

    ・ゲツセマネで主イエスが「みこころがなりますように」と祈った事実が私たちにも同じ祈りをせよと命じる根拠である。

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  • 天の恵みに手を開く~御国の三つの景色~(マタイの福音書6章10節)
    2026/06/14

    序)「御国が来ますように」を教会の中心に据えて

    ・福音のメッセージは「私たちを(死後の)天国に入れてください」という方向性ではなく、この世界全体が、神様の祝福にあずかり、人の罪によって歪んだ世界が贖われて新しくされる(=神の国の成就)ことに中心がある。教会は「天国の待合室」ではなく「神の国の出張所」である。

    1)「雨」にもいろいろあるように

    ・マタイの福音書では「神の国」という言葉より「天の御国」という言葉が目立つ。これは「神」という言葉を避けたユダヤ人に配慮した表現?

    →それではマタイの福音書 6 章 33 節や 19 章 23~24 節が説明できない。

    ・「神の国」と「天の御国」は似ていて、重なるところはあるが違う強調点をもっている。マタイはさらに「父の御国」という用語も使う。

    ・「神の国」という大きなカテゴリーの中に「天の御国」、「父の御国」、狭い意味での「神の国」という使い分けがある。

    2)「種」「花」「花園」~主の祈りで祈ること~

    ・種:天の御国は、天にある王としての権威の総体、神様の主権を指す。

    ・花:(狭い意味での)神の国は、天の王権が「地上」で実態を伴った状態。

    ・花園:父の御国は、キリストの再臨によって完成される世界。

    ・主の祈りの「御国」の直訳は「あなたの国」で、文脈上「父」と「天におられる方」の 2 つにかかる。

    →「父の御国が来ますように」=再臨によって起こる世界の完成を祈る。

    →「天の御国が来ますように」=天の王座と「今・ここ」の私たちが「つながりますように」という祈りである。

    3)ダニエル書が教える「天の御国」とのつながり方

    ・ネブカドネツァル王が獣から人間に戻るところで、ネブカドネツァル王が「天の御国」を悟る。いま、目の前の現実がどうであれ、天の御国は、変わらずにずっとあり、すべてを包んでいる。

    ・「天の御国が近づいた」はタイミングの接近という意味ではなく「天の御国」は遠い所ではなく、いつでも、あなたの真上にあるということ。

    ・天の御国が来る(=天の御国とつながる)条件は「へりくだって身を低くする」こと。これは福音書で「心の貧しい者」と描かれる。

    ・「心の貧しさ」は精神的貧困や、自己肯定感の低さではない。

    結)手を開いて、恵みを数える祈りへ

    ・私は恵みを忘れて、自分の手柄の有無、自分の過去を握っていないか。

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  • 聖名を帯びたコパンとして(主の祈り②)(マタイの福音書6章9節)
    2026/06/07

    序)「祈り」が「願い」になりやすい私たち

    ・「祈り」…神様の心のとおりに私たちが動かされること

    ・「願い」…私たちの言葉通りに神さまに動いてもらうこと

    ・「御名を崇めさせたまえ」は、心からの礼拝を求めているようで、神様を鼓舞するようなニュアンスを抱いてしまうかもしれない。

    1)「あなたがここに置かれた御名が」

    ・「御名が汚される」≒不名誉な事柄によって好ましくない評判が与えられること「汚名を着せられる」ことである。

    ・神様は失敗することがないのでご自身を原因として、御名が汚されることはない。神の名を帯びた者によって、御名が汚される。

    ・神の名を帯びたもの(御名が置かれたもの)とは、神の祝福を受ける者(民数記 6:27)であり、神殿である。(Ⅰ列王 8:29)

    ・御名を汚すことができるのは、私たちである。天において神の名は永遠に聖であるが、地の上においては、私たち次第である。

    2)「御名を汚す」しくじりとは何か

    ・御名を汚す「しくじり」とは、罪を犯すことや失敗することではなく、「罪を罪と思わないで、自分を正しいとすること」「失敗や罪を隠蔽すること」である。→隠蔽は「神様は失敗や罪を赦すことのできない、心の狭い方である」「神の目は盲目で、隠すことが可能である」ということを告白する行為。愛と赦しの神は、他の神々と比較にならない卓越した神の性質(=聖)だが、それを信じて行動しないなら、汚す行為となる。

    ・神の聖(完全性)を信じるなら、私たちは不完全で成長する存在だと認めることになる。悔い改めや改善を放棄するなら思い上がりである。

    3)聖なるものと「されますように」

    ・神様は私たちをご自分の「聖」に与らせようとしてくださることも忘れてはならない。神様は、私たちの名をもってご自分が呼ばれること(〇〇さんの神)を求められる。

    ・「聖なるものとなりますように(私、頑張ります!)」でもない。これは神的受動態である。主導権は神が取るが、私たちは自分を差し出すことが求められている。

    結)「御名が置かれた天と地を結ぶ柱」として

    ・聖霊に自らを探られ、自分を開くことなしには祈りは「呪文」になる。

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  • この地に、コパンと共に立つ(主の祈り①)(マタイの福音書6章9節ab)
    2026/05/31

    序)「コパン(いのちのパンを共に食べる仲間)」と祈る「主の祈り」

    ・ユダヤ人の文章の綴り方は「山登り」のように中心に重要事項を置く。

    ・「山上の説教(5~7 章)」は、一つの山であり「主の祈り」が頂上にある。

    ・「主の祈り」も 7 つの要素で構成された山で中心は「日毎のパン(糧)」!

    1)「祈り(プロスエウコマイ)」の再定義

    ・「祈り」と「願い」は重なる部分がないわけではないが、区別できる。

    ・神は、人間の「願い」を「求める前」から知っている。(8 節)

    ・「プロスエウコマイ」のコアは顔と顔を合わせるほどの至近距離に身を置くこと。そこで起こることは、冗長な願いのリストを伝えるのではなく神の心、神の語り掛けを聞き取ること。

    ・「主の祈り」は「イエス様公認のお願い事リスト」ではなく「父の語り掛けを聞き取る備え」であり、言葉の後の「間」が重要になる。

    2)「父よ」「私たちの父よ」

    ・この呼びかけは神の性別を教えるものではない。「源」という意味であり、自分が「子」であることを自覚させる。

    ・この親しみをこめた呼びかけは、当時の人々には驚くべきことだった。神と人の間には幕があり、断絶があり、数々のいけにえと準備が必要だった。それを手ぶらで「父よ」と飛び越える革命的な「道」である。

    ・この「道」はイエスの十字架で開かれた、いのちがけの道。

    ・「父よ」と呼びかける時、私たちはイエスの御名で祈っている。

    ・「私たちの父よ」と呼びかけるとき、神の家族(コパン)の一員であることを自覚する。一人ひとりが「人類代表」であることを自覚する時、わがままな願いは消えていく。

    3)「天におられる方よ」

    ・この言葉は、至近距離から遠ざかる感覚を呼び起こすが、これは視点、視野の違いを自覚させる言葉。伝道者 5:1~2 が背景にある。

    ・父は、天からの視野で私たちの知らないことを知っている。だから伝えることより、聞くことに価値がある。それゆえ「言葉を少なくせよ」

    結)「天と地を結ぶ柱」として共に立つ

    ・父は「天」におられるゆえに「地」に触れることができない。でも、そのために「私たち(子)」が存在している。

    ・「主の祈り」を積み重ねる時、私たちは天と地を結ぶ「柱」になる。

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  • 手を強くして、平和の広場を(ゼカリヤ書8章9節~17節)
    2026/05/24

    序)バッテリー切れのスマホのようになるとき

    ・聖書に示された神の壮大な計画は、世界全体を神の祝福で満たすこと。

    ・第一段階:神に背いた人々を赦して受入れ、ご自分の家族にすること。

    ・第二段階:神の民となった人々を用いて神殿(=天の恵みを地に流すパイプ)を建てること。→旧約においてこの神殿の力はソロモンをピークに減衰し、失われてしまう。ゼカリヤの時代、再建は進んでいたが神の臨在は戻らなかった。

    1)「万軍の主」にこめられた意味

    ・「万軍(ヘブル語:ツェバー)」は武力的な意味ももつが「奉仕者」という意味があり、「万軍の主」には、天の使い達と相談・協議して計画を進める知恵深い王という意味がある。Cf.「三人寄れば文殊の知恵」

    ・「万軍の主のことば」には「天の総会」を経て決定された「総会決定」という意味と重みがある。

    2)七つの総会決定を通して提示される神の計画

    ① 「神の愛の激しさは変わらない」…神の愛の意志がすべての土台 → どんな状況にあっても、神の愛は揺らがないことを受け入れよう。

    ② 「当初の予定は変更されない」…エルサレム(シオン)から始まる →これが実現したのが、ペンテコステ(聖霊降臨)である。

    ③ 「未来の平和(シャローム)のビジョン」…ペンテコステの目的 → お年寄りが悠々と過ごし子どもが遊べることが平和の証し

    ➃ 人間には難しく見えても、神にとって難しいことではない。 → 「民の残りの者」とは、神の約束された未来に立ち会う人々

    ⑤ 「救いを実現するエージェント(モーシア)を立てる」 → 一義的にはキュロス王が神殿再建の環境を整えることを指す。

    ⑥ 「勇気を出せ(=手を強くせよ)…神殿を建てるために」 → 過去に「のろい」となってしまった現実を認めても、卑屈になるな!

    ⑦ 「互いに真実を語り合い、愛し合え」…それが神殿を主の霊で満たす → 礼拝に集まっても相互の愛が表されないなら、神殿にはならない。

    結)私たちの経験を、さらに

    ・たんぽぽ教会の駐車場は、「平和の広場」になり始めている。

    ・「私たちは祝福となる」と神様が決められた。

    ・府中市は「平和宣言都市」であるが、私たちが神殿として築き上げられていくことによって、その内実を満たす。

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  • 主の恵みはとこしえまで(詩篇136篇1節~26節)
    2026/05/17

    序)響き合う賛美~約束の地での再会~

    ・詩篇 136 篇は、バビロン捕囚から祖国へ帰還したイスラエルの民が、再建された礼拝の場で声を合わせて歌った喜びの歌。

    ・「主の恵みはとこしえまで」というリフレインが全編に渡って繰り返される。この繰り返しの響きそのものが、神の変わらぬ御姿を浮かび上がらせる。

    1)感謝の「理由」~「なぜならば」という確信~(1~3 節)

    ・冒頭の「感謝せよ」という呼びかけは、単なる道徳的な命令や義務ではない。

    ・各節の後半には「なぜならば(キー)」という接続詞が隠されており、感謝を捧げるべき明確な根拠が示されている。

    ・「恵み(ヘセド)」とは、移り気な感情ではなく、神が結ばれた契約に基づく「誠実な慈愛」。その恵みが過去・現在・未来と、とこしえに途切れることなく注がれていることへの再発見。

    2)恵みのヒストリーツアー~宇宙から個人の歩みへ~(4~25 節)

    ・天地創造(5-9 節): 壮大なスケールで語られる世界の始まり。日々の光、月、星の運行さえも、神の恵みが形となったものである。

    ・出エジプト(10-22 節): 視点は具体的な歴史へ。出エジプト、葦の海の奇跡、400 年の時を経て与えられた約束の地。世代を超えて語り継がれてきた「不思議なわざ」を今の恵みとして受け止める。

    ・苦難の中の顧み(23-24 節): 卑しめられたとき(捕囚など)も、主は私たちを忘れず、心に留めておられた。自分たちの行い故に陥った苦悩の状況にあっても、主の救いの御手は差し伸べられていた。

    ・今、ここにある養い(v25): 遠い過去の出来事ではなく、今日必要なパンを与え、いのちを支えておられる主の現在進行形の恵み。

    結)天を仰ぎ、恵みに包まれて歩み出す(v26)

    ・「天の神に感謝せよ」という結びは、再び私たちの視点を神の主権へと引き上げる。

    ・気分の浮き沈みや忙しさに翻弄される日常の中にあっても、日は昇り、風は吹く。その当たり前の光景の中に、主の変わらぬ「ヘセド」が満ちている。

    ・喜びの時も嘆きの時も、神の大きな恵みの物語の中に生かされている驚きをもって、新しい一週間の歩みへと遣わされていきましょう。

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