エピソード

  • 自分の正義を手放せますか(ヨナ書2章1節~10節)
    2025/08/10

    序)

    ・ヨナ書は短い物語ですが、予想外の展開と人間らしい主人公ヨナの姿が心を惹きつけます。嵐の海、暗く冷たい魚の腹の中――そんな極限の中で、ヨナは何を思ったのでしょうか。

    1)

    ・神様の命令を聞いたヨナは、正反対の方向に逃げてしまいました。大嵐に巻き込まれ、海へ投げ込まれ、ついには大きな魚に飲み込まれる――そこからが神様との対話の始まりでした。

    2)

    ・ヨナは放蕩息子の兄と似ています。『自分は正しい』という思いに縛られ、赦しや喜びよりも、自分の正義を守ろうとしました。その固い心は、やがて彼を孤独へと向かわせます。

    ・私たちも、自分の正義を強く握りしめる時があります。その結果、神様の導きに耳を閉ざし、周りとの関係を失い、気づけば暗く冷たい“魚の腹”のような孤独に沈んでしまうこともあるのです。

    3)

    ・ヨナのような最善ではない祈りが、私たちの普段の祈りかもしれません。でもたとえそうであったとしても、神は傍に立って聞いてくださいます。

    ・それは、イエス様はヨナの話を引用され、この時のヨナの姿をご自分の十字架の死と重ね合わされたからです。イエス様は私たちの孤独や言い訳をすべて背負い、十字架の死と“よみ”にまで降られたからです。

    結)

    ・放蕩息子の兄は、父に宥められた後で祝宴に参加したでしょうか?ヨナは、ヨナ書で書かれている話の後、どうしたと想像しますか?

    ・教会は、赦しと喜びのパーティーが広がる場所です。今は納得できなくても、この交わりの中で私たちの祈りは少しずつ変えられていきます。

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    47 分
  • 苦しみの中の喜び(詩篇70篇1節~5節)
    2025/08/03

    序)誰が何を「思い起こすため」なのか

    ・詩篇 70 篇は 71 篇の導入として語られていると考えることができる。70 篇の表題には「記念のために」ということばがあり、「思い起こさせるために」ともヘブル語で訳すことができる。それでは、「誰が何を思い起こすために」この詩篇 70 篇は書かれたのか。

    1)神への叫び

    ・「神よ」「主よ」という呼びかけの違いは、ここでは、この世界のすべてを支配する全能者としての「神」という名と、私たちを助けてくださる方である個人的な関係としての「主」という名前で呼び分けている。

    ・詩篇71:5.17をみると、若い頃を思い出していることから、いい大人だったのではと考えられる。そして、いい大人だった詩人は切迫した緊張状態の中、恐怖を感じ焦りを経験し、全能者でありわたしたちを憐んで助けてくださる主に助けを必死に求めた。

    2)神に信頼する共同体

    ・3 節には詩人のいのちを探し、滅びを求めている敵たちについて書かれ、4 節では 3 節までの敵と神を信頼する共同体が対比されている。

    ・1~3 節までは「神様・私・敵」だけ見えていたが、4 節には「あなたを慕い求める人たち」とあり、神に信頼する共同体が自分には与えられていることを思い起こした。

    3)神を知ることは、自分を知ること

    ・詩人は、主権者である神を賛美する中で、神の前に出たとき自分がどれだけ小さい者なのか自分の小ささ貧しさに気づいた。

    ・宗教改革者のカルヴァン「神を知るということは自分を知ることである。」⇒神とはどういう方か見えたとき、私たちは自分がいかに小さく、助けを必要とする存在なのかを知る。真の自分を知るとき神の主権がどのようなものかも知ることになる。

    結)苦しみの中なぜ喜ぶことができるのか

    ・神の主権の中で、神の共同体が与えられていることを思い起こすとき、苦しみの中でも私たちは喜びと希望を見出すことができる。

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    30 分
  • 「十のことば」と神の国(申命記4章5節~13節)
    2025/07/27

    序)律法は、神の国を生み出すことばである

    ・律法は、堕落した世界にもう一度、神の国を生み出すための「ことば」としてモーセを通して与えられ、イエス様によって体現され、完成した(マタイ 5:17)ものであり、その中核に「十のことば」がある。

    1)「十誡」か「十のことば」か

    ・文語訳聖書から十誡という訳語が用いられ、口語訳、共同訳に引き継がれているが、仏教用語を借用した可能性が高い。

    ・仏教の十戒は、出家した人がこれを守ることで悟りを開き、よりよい来世に至るためのもの。聖書の十誡がと同じ機能をもつと考えてしまうと「行いによる救い」になるし、そこでいう「救い」も来世的になる。

    ・聖書の関心は、来世ではなく現世にある。「いのちに入る」=「神の国に入る」という福音書の表現は、申命記 4:1 に出処がある。約束の地で律法を実行して、幸せになることを「いのちに入る」と言っている。

    ・「十(エセル)」には「共同体を形づくる」という語義があり、それが「十のことば」の所以。戒めの数がぴったり 10 かどうかも関係ない。

    2)新約時代の律法の学び方

    ・「十のことば」を根本原則として旧約聖書には多くの「掟と定め(ルールと制度)」がある。これは当時のイスラエルが約束の地で実行することが前提になっている。新約では、約束の地が全世界に広がっている。

    ・マタイの福音書 28 章 18~20 節は、申命記を普遍的に言い直している。

    ・特定の時代と文化の中で生まれた律法を、別の時代と文化で実行するには本質と目的を理解して、ルールや制度に隠された知恵を見出し実行する必要がある。本質は愛(ガラテヤ 5:14)で、目的は自由(ヤコブ 1:25)

    ・旧約においては、贖いの血は動物だったので効力が弱く、イスラエル限定であり、儀式を繰り返す必要があった。しかしイエス様の血は効力が最大であるので全世界に神の国は広がり、儀式はもはや不要になった。

    3)私たちは律法を行うことができるのか

    ・5 節の「見なさい」は、神に逆らう古い世代は滅び、神様が新しい世代を起こし、彼らが約束の地に入るという事実。律法の前に、滅ぶべきものは滅び、そこに新しいいのちが始まる。

    ・これが私たちの内側で起こる変化の比喩である。生まれながらの努力では律法は行えないが、キリストと共に生きることにより行える。

    結)「律法を守る」とは

    ・「守る(シャマール)」は観察し、見張り、見守るという意味である。

    ・御言葉を理解し、自分の心を見張り、新しい思いを見守り育てるなら、私たちは「十のことば」を体現し、神の国を創造することばとなる。

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    46 分
  • ゲヘナではなく平和を(マルコの福音書9章42節~50節)
    2025/07/20

    序)言葉を理解する基本と例外

    ・言葉は文脈の中で理解する。諺(ことわざ)の類は少し例外であるが、社会の文脈の中で意味を成す。

    1)マルコ 9 章後半の大きな文脈

    ・33 節で「誰が一番偉いか」という議論があり「誰でも先頭に立ちたいと思う者は、皆の後になり、皆に仕える者に」と諭された。

    ・38 節でヨハネは要らない派閥意識を持ち出して叱られる。

    ・42節は「誰が一番偉いか(△)」にこだわり続ける態度の問題性が話題

    ・「誰が一番偉いか」という議論を放っておくと平和が壊される。

    2)「小さい者たちをつまずかせる」の意味

    ・42 節は 41 節との対比である。「つまずかせる」とは「誰が一番偉いか」という△の生き方に人を巻き込むこと。

    ・「小さい者」と言われ「子ども」と言われていない。これは「偉い」の対義語。イエス様を信じて▽に生きようとしている者を指す。

    ・成長や競争自体が否定されているわけではない。強さは仕えるために。

    ・「大きな石臼を~」はギリシア語の文法の中で最も可能性の低い条件文であり、比較対象は「ゲヘナに投げ込まれる」より良いと言っている。

    ・石臼は、船の安定のために船底に置かれていた錘のこと。

    3)「ゲヘナに投げ込まれる」の意味

    ・「手(3:5)」「足(2:11)」「目(8:25)」はマルコの福音書の中でイエス様が救われ、癒された部位である。それは肉体的癒しと共に、霊的意味をもっていた。このイエス様の救いの結果が、△レースを促進することになるなら捨ててしまえという強烈な皮肉になっている。

    ・「ゲヘナ」とは①エルサレム南西部にある谷「ヒノムの谷」のこと②そこでエルサレムのごみの焼却処理がされていた③ごみ処理場になる前は「子どもを火にくぐらせる」非人道的な宗教儀式の場であった(Ⅱ歴代33:6)④これがバビロン捕囚を招き、エルサレム陥落の際、戦死者がこの谷に投げ込まれた→「ゲヘナに投げ込まれる」とは、人の尊厳が奪われ、モノ同然に焼き捨てられる戦時下に起こる最悪の状態を指す。

    結)ゲヘナではなく平和をもたらすことは可能である!

    ・「火によって塩気を」の「火」はゲヘナからの連想だが the に相当する定冠詞がないのでゲヘナの火ではない。諺のようなもので、具体的には「イエス様の言葉(熱い心から出る言葉)」の意味。塩気は、悔い改め(方向転換)によって▽に向かう奉仕の生き方。

    ・「ゲヘナ」を「地獄」と訳す翻訳がある。戦争犠牲者がごみ処理場に投げ込まれる世界はまさに地獄。死後の霊的な刑罰の場の意味ではない。

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    50 分
  • ポイント稼ぎは止めよう~伝道の仕切り直し~(マルコの福音書9章38節~41節)
    2025/07/13

    序)「すべてを立て直す福音」から「伝道」を考え直す

    ・イエス様を信じると義と認められる(神との関係の正常化)のは「逆三角形」を生きるためのどんな境遇にも揺らがない土台を得ること。

    ・この土台から来る霊的力を現実化することで、隣人のためにリスク(十字架)を負える人格になることがキリスト信仰者の成長目標であり、御言葉と祈り、教会の交わりによって達成される。

    ・世界の「立て直し」に取り組んでいるのはキリスト信仰者だけではない。そういう人たちをどう考えたらよいか。

    1)叱られるヨハネ~ポイント稼ぎは止めなくてはいけない~

    ・38 節以降も、弟子の中で「誰が一番偉いか」の議論の中にある。まだヨハネはイエスの道を悟っていない。弟子にならずに悪霊を追放する人を制止したことで「ポイント」がもらえると考えたが見当違いだった。

    ・「あなたの名によって」は「名を唱えて」ではない。まるでイエス様のように悪霊を追放しているという意味。「悪霊追放」は神の国のしるしであった。神の力はイエスの弟子であるかどうかに関係なく及ぶ。

    ・イエスの弟子(クリスチャン)でなくても「立て直し」に生きている人をイエス様は「味方」だと認めておられる。

    2)「信仰」の軸と「立て直し」の軸で考える~整理のために~

    ・イエス様の発言からすると「弟子」「弟子でない」という二分法ではなく「立て直し」に向かっているか否か(△か▽か)という軸を加えた四分法で考える必要がある。

    ・伝道を進めるためには、弟子である者が▽志向に生きていないといけない。

    ・家族伝道を考える場合にも、言葉の前に「立て直し」や家族の潤い(箴言 11:25)のために生きることが求められる。

    3)救いはなくても「報い」がある

    ・言葉の伝道ではなく、立て直しに一生懸命であるなら、その人に「一杯の水(最高のおもてなしの一つ)」を与える人には報いがある(中身は不明だが、お委ねしよう)とイエス様は断言されている。

    ・私たちがイエス様の生き方を受肉させ、隣人が同じものを求めて来たなら、言葉でイエス様を伝えよう。

    結)他人を手段にするのではなく、自らが手段になるように

    ・与えられた救いを最大限活用し、隣人の祝福になることを目指そう。

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    40 分
  • 【衣】脱がせて、着せて、かぶらせて(ゼカリヤ書3章1節~5節)
    2025/07/06

    序)ゼカリヤ書の時代背景

    ・バビロン捕囚からの帰還後、神殿再建の中断によって、民の信仰が冷えゆく時代。ゼカリヤは回復と希望の幻を通して、神の民の再生を語る。

    ・3 章の幻は大祭司ヨシュアが主によって「脱がされ、着せられ、かぶらされる」出来事。

    1)ゼカリヤの幻:ヨシュアが脱がされ、着せられ、かぶらされる

    ・法廷の場で、ヨシュアは告発者サタンに責められるが、主がサタンをとがめ、ヨシュアを弁護する。

    ・火から取り出された燃えさし=神に選ばれ、さばきから救われた者。

    ・汚れた服(背き)を脱がされ、大祭司としての礼服(礼拝の務め)を着せられ、ターバンをかぶらせられる。

    2)私たちが脱がされ、着せられ、かぶらせられること

    ・イザヤ 61 章、エペソ 4 章とも響きあう「衣を脱ぎ、衣を着る」救いのしるし。

    ・キリストによって罪が脱がされ、義と聖の新しい衣が着せられる。

    ・動詞は「中動態」=自らの意志によって脱ぎ、着る。「アオリスト」=主イエスによる一度限りの決定的な救い。

    ・キリスト者は、主の愛に主体的に応答し、繰り返し思い出しながら「キリストを着続ける」。

    ・逆風の中でも、キリストという衣は私たちを守り、温めてくれる。

    3)私たちに栄冠がかぶらせられること

    ・ヨシュアがかぶったターバン=大祭司の冠。これは私たちにも与えられている。

    ・Ⅱテモテ 4:8、黙示録 2:10「義の栄冠」「いのちの冠」=主の前に立つ特権としての印。

    ・終末だけでなく、主の日である今日にも与えられている。

    ・告発者サタンの声に押しつぶされそうになる日常にも、キリストの十字架の救いが働いている。

    ・今ここで礼拝をささげる私たちは、すでに主の栄冠をいただいた者。

    結)脱がされ、着せられ、かぶらせられた者として生きる

    ・私たちは、「自分だけが救われるため」ではなく、人々を神に立ち返らせるために衣を着せられている。

    ・私たちもまた、新しい神殿再建の働き人。礼拝を整え、人々が主に応答できるように仕えていく。

    ・主の恵みに応答し、主の前に出る特権に生きる者として、今週も証ししていきたい。

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    31 分
  • もっと祈りたい(マルコの福音書9章14節~29節)
    2025/06/22

    序)イエス様の言葉に戸惑う

    ・イエス様が 3 人の弟子と山に登っている間に「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊」につかれた男性が連れて来られ、麓の弟子たちはこの霊の追放ができなかった。その理由に私たちは戸惑う。

    1)この種のものはメシアでなければ追い出せない?!

    ・この当時、悪霊追放の術式がある程度確立されていて、悪霊とコミュニケーションを取って、その名を聞き出すことができれば、追放が可能だった。それゆえ「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊」は厄介であり、メシアが来られるまでは癒されることはないと考えられていた。

    ・「祈りによらなければ」とは、大きな問いを発する言葉である。

    →現代社会において「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊」の問題に向き合う可能性は低いが、これは「神の国が臨んでいるしるし」であり、神の国の力を具体的に現すことは現代も変わらないはずである。

    2)山の上と山のふもと~天に昇られたイエス様と地上の私たち~

    ・15 節の群衆の驚きを含め、麓の様子は、イエス様不在の世界を象徴する。イエス様は天に昇られて目の前にはいない。そういう世界で手をこまねいて議論ばかりする(再臨ばかりを待ち望む)私たちの姿である。

    ・イエス様の登山はモーセのシナイ登山と重ねられている。モーセ不在の中で、イスラエルは金の子牛を造る。弟子たちは不信仰を露わにする。

    ・「いつまで一緒にいなければならないのか」は「いつも共にいます」とは矛盾しない。別の表現で「いつまで、あなたがたのお世話係をしないといけないのか」という嘆きである。イエス様に見捨てる意図はない。

    ・共に歩むとは自立した人格同士の行うことであり、もたれ合い、甘え合うことではない。神に甘えた状態では、御国の現れが限定される。

    3)「祈り」への挑戦

    ・「祈りによらなければ」は福音書を受け取った教会にも戸惑いを与えたことが「祈りと断食によらなければ」と書き加えた写本から推察できる。

    ・これまで続けて来た祈りはほとんど「神に頼む祈り(願い)」だったとすれば欠落していたのは「神に頼まれる(状態になる)祈り」ではないか。

    ・神に頼まれる祈りには、覚悟が要る。自分を「危険」にさらすことである。イエス様が山の上で祈られたのは、この祈り。御言葉(モーセとエリヤ)との対話を含む理性的なもので、自分を変える祈り。

    結)もっと祈りたい

    ・「主の祈り」の前半は「神に頼まれる祈り」だと気づかされる。

    ・「できるなら」は「神に頼む祈り」の世界「信じる者にはどんなことも」が神に頼まれる祈りの世界である。

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    49 分