エピソード

  • C02 思いの幅を拡げる
    2026/11/01
    C. 哲学することC.2. 思いの幅を拡げるC.2.1. 今回は、「思いの幅を広げる」ことについて、考えてみたいと思います。C1にて、思いとは、日々嬉しい、楽しい、悲しいといった感情に加え、これが大事だ、これが正しい、この方が善い、あるいはこれが美しいと感じられた経験によって、まるで雪が降り積むように積み重なっていく感覚・思考・判断のまとまりだと、考えてみたのでした。C.2.2. 私たちが生きているこの世界には、そのようにして積み重なったまとまりが、いたるところに結晶化していると思っています。例えば言語も、料理も、ダンスも、絵画も、音楽も、映画も、そうした「思い」が結晶化していったものの一つだと思うのです。C.2.3. そうして積み重なったさまざまな思いは、何らかの厚みを持つようになります。文化人類学の用語に「意味の厚み」という、一見するだけではなぜそんなことをしているのかわからない他の地域の文化には、一つだけに限らないたくさんの意味が積み重なっているものだということを示す概念があります。C.2.4. 例えば、お祭りはただ単に飲み食いするだけのイベントではありません。飲食を通じて身近な人との親密さを高めること、音楽や舞踊を介して人々が世代を超えて互いにコミュニケーションをとること、そうしたコミュニケーションを通じて地元の経済を潤し、地域の無形文化を保存していくことなど、さまざまな意味が相互に積み重なっていて、切り離せないものです。C.2.5. それと似たように、日常の出来事への思いにも、単に前後の文脈の単純さや複雑さを説明されただけでは見えてこない、一人の人間の思いがたくさん込められることで生まれてくる、「厚み」があるように思うのです。C.2.6. 今回はこうした、確かにこの世界に実在する、人々の抱く「思い」の厚みの違いについて、「思いの幅」という言葉を比喩に用いて、考えてみたいと思います。C.2.7. 例えば、外を夜中に一人で歩くという出来事について、みなさんはどんな「思い」を持っておられるでしょうか。仮に、その歩く人が女性である場合と、男性である場合とで、起きる出来事の違いはたくさんあると考えられます。男性からいきなり肩をぶつけられる、身体を触られる、追いかけられ、身体を掴まれる。最悪の場合には、レイプ、殺害の危険もあります。C.2.8. もちろん、男性の場合でも、いきなり身体を触られる、追いかけられる、レイプ、殺害の危機は存在しています。しかし統計的に観たとき女性は男性と異なり、10名に1人が強制的な性交を強いられていることがわかっています。その7割以上が顔見知り、またはパートナーからのものであり、被害のほとんどが30代までに、特に20代の間に生じている点で、幼い年齢からこれらの危機に家庭のなかでも晒され続けていることは明らかです。C.2.9. こうした強制的な暴力が家庭生活のなかにすら埋め込まれているにもかかわらず、女性が性的なアピールと男性に受け取られる服装をしているから、性欲の強い男性からの被害を受けるのだという非難は、しばしば起こってきました。しかし果たして本当に、何らかの欲求へのアピールをした人間が悪く、アピールされたことで駆り立てられた欲求を満たしただけの人間は、悪くないのでしょうか。C.2.10. この非難が前提としている「思いの幅」の狭さ、そしてその薄さについて、ちょっと考え直してみましょう。例えば、夜中に一人で歩いていたある女性が性的なアピールを伴う服装を、互いに性的に愛し合う関係にある恋人とのデートのために着てきていたとしましょう。こうした状況下でも、そのようなアピールをする服を着ている女性のほうが、そんな服装で性被害に遭っても自己責任だと、咎められるべきでしょうか。仮に、それでもその服装の露出の多さなどから、「一般道徳として咎められるべきだ」と、一層非難されたとしましょう。C.2.11. ではこの「一般道徳」について考え直してみるべく、まったく別の場面で考えてみましょう。あるキャンプ場にきていたカップルが、二人で一緒に食べようと思って...
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  • C01 思いの丈をつくる、つくり変える
    2026/11/01

    C. 哲学すること

    C.1. 思いの丈をつくり、つくり変える

    C.1.1. 哲学することとは、思いの丈をつくり、つくり変えるという経験だ、という考えを、私は持っています。哲学研究において、しばしば日常的な言葉を哲学上の概念として使うときがありますが、私はこの「思いの丈」という言葉を、その使い勝手の良さから、哲学対話の場などでよく使っています。

    C.1.2. まず、「思い」とはなんでしょうか。私は「思い」とは、日々、嬉しい、楽しい、悲しいといった感情に加え、これが大事だ、これが正しい、この方が善い、あるいはこれが美しいと感じられた経験によって、まるで雪が降り積むように積み重なっていく感覚・思考・判断のまとまりではないかと、考えてみています。

    C.1.3. 実際、「思い出す」という経験について考えてみると、これは単に過去の出来事を正確に描き出すという経験ではない印象があります。自身のなかに降り注いできた多くの感情、感覚、思考、判断のまとまりが、ふと取り留めなくいろんなかたちで出てきてしまうような、そんな流動的な経験であるように感じます。

    C.1.4. このように流動的な思いの「かたち」を捉えるべく、私は自分も含めた人の思いを「思いの丈」として捉えて、どんな論理がそのなかで展開されているかを見ていこうとしています。が、いきなりそんなふうに言われても、何が何やら、よくわからないと思われます。

    C.1.5. そこで「思いの丈をつくる」という経験を、以下の3つの経験から構成されていく経験であると考えていますと、お話ししています。ここでは、その概略について、お伝えします。

    C.1.6. まず「思いの幅」という言葉で、この世界の出来事についてその人自身が感じている、「思い」の拡がりを見ようとします。

    C.1.7. いわゆる「経験の幅」が、その人の「思いの幅」の拡がりに影響を与えることもありますが、そうでない場合もしばしばあるため、「経験の幅」とは異なる意味合いで、「思いの幅」という言葉を使っています。このことについてはまた、別途お話しします。

    C.1.8. 次に、「思いの嵩」と「思いの軸」。この世界の出来事について感じている思いが、積み重なり、繋がって、なんらかの方向性を持つようになっていく。まさに「思いの丈」が、なんらかの方向性をもった「かたち」のように形作られていく過程を、この2つの概念で見ていこうとします。

    C.1.9. 「思いの幅」「思いの嵩」「思いの軸」。この3つの概念を通じて、私はその人がこれまでどんな出来事について思いを拡げ、重ねてこられたのか、あるいは拡げることも重ねることもできない状況を生きてこられたのかについて思いを馳せて、自分の思いの幅を動かし、重ねて、軸を探っていきます。

    C.1.10. 言い換えれば、その人の思想をなんらかの強弱やラベルで断罪するためでなく、その人の生きてきた人生の経験に裏打ちされたものとして理解するために、この「思いの丈」モデルを用いています。

    参考文献

    桐田敬介『哲学対話入門』enfac URL = https://www.enfac.co.jp/contents/pd/ (2026年10月23日確認)

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    5 分
  • B02 哲学が大切にしていること──哲学と科学について(後編)
    2026/10/25
    B. 取り扱い注意の言葉たちB.2. 哲学が大切にしていること──哲学と科学について(後編)B.2.1. さて、「真実」について研究している哲学者は、どんな研究をしているのでしょう。驚かれるかもしれませんが、古代から現代に至るまで、じつにたくさんの「真実とは何か」についての議論があり、これについて研究をする分野は「真理論」(theories of truth)という名前で、成立しています。スタンフォード大学の哲学辞典をみるだけでも、真理論には対応説、整合説、実在説、また反実在説など、さまざまな理論があることがわかります。B.2.2. こうした真実についての哲学理論が何をデータに研究しているのかというと、とってもありふれた、日常的な経験での真実について議論しています。たとえば、「この部屋に机がある」という言葉は、確かに「この部屋に机がある」ときにのみ「真実」だが、そうでない時には「真実」ではない、というような。B.2.3. あっけに取られてしまったかもしれませんが、よくイメージされるような、未来永劫変わらない絶対唯一の「真実」、あるいは教科書に載っていない、メディアが流さない「隠された真実」のような、その正しさを案に示すことで誰かに対して権力を持つような「事実」や「知識」について、研究しているのではありません。B.2.4. そうではなくて、普段、「真実」という言葉や経験が、私たちにとってどんな意味を持っているのかについて、研究しているのです。たとえば、「〇〇事件の真実」、「〇〇時代の真実」というような使われ方は、普段、メディアや書籍などでもよく使われていると思いますし、「あの頃、私にとっては〇〇が真実だった」というような、文学的な表現としても使われることはあると思います。B.2.5. 哲学はこうした、何らかの社会的・心理的な状況や個人的な経験に対して使われている「真実」といった言葉が、一体どのような意味を持つものなのか、またどのような経験でありうるのかを明らかにする理論づくりをしているといって、まず間違いはないのではないかな、と思われます。B.2.6. その際に、哲学者の検討している哲学理論は遥かな古代のものから、現代のものに至るまで実に幅が広いと言えます。同様に、哲学がその研究に用いる事例として採用しているものも、普段の日常的な出来事に限らず、歴史的な史実から、フィクションのなかの出来事に至るまで、一層多様であるのが、科学との違いと言えそうです。B.2.7. なぜ古代のものから現代のものまで、さらに日常や史実、フィクションに至るまで幅広く研究しているのかといえば、哲学は自分たちの社会を見えないところで支えている地盤のようなものを掘り下げようとしているところがあるからだと言えます。実際、現在当たり前に受け取られている価値観や考え方も、時を遡ると過去の哲学者の議論や、当時の多くの人々が信じていた価値観に行き当たることが多いのです。B.2.8. だからこそ、私たちは現代を生きるにあたって、当たり前のことだとされてもとても納得がいかなかったり、腑に落ちなかったりするとき、哲学の助けを必要とするときがあるように思います。なぜならこれまで哲学は、そうした人々の価値観や考え方のパターンを言語化すること、つまり理論にすることに注力してきたからです。B.2.9. ゆえにとても広い意味で、哲学を研究するということは、過去の時代の人々、特に哲学者たちがかたちづくってきたさまざまな理論について、さまざまな観点から考え直すというプロセスそのものと言えます。よって、その理論に誤解があれば注釈を入れたり、言葉の不足があるなら付けたしたりしますし、その理論が示している価値の基準が曖昧なら、よりはっきりしたものに整えたりもします。B.2.10. その意味で、哲学もまたとっても地道な営みです。理論のどこに不備があるのかは、一見しただけではわかりません。何百年もわからずじまいだったことすらあります。さらには、哲学には本当にさまざまな方法があります。詩のように哲学をしている哲学者もいれば、数式と記号を...
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  • B01 科学が大切にしていること──哲学と科学について(前編)
    2026/10/25
    B. 取り扱い注意の言葉たちB.1. 科学が大切にしていること──哲学と科学について(前編)B.1.1. このカテゴリーでは、とても繊細な取り扱いが必要な言葉について、お話ししていきます。おおよそ、AとBという二つの言葉のかかわりや重なり、ちがいについて考えてみることで、その意味の深みをなるべく感じ取ることができるように、していきたいと思います。そのため、他のカテゴリーに比べて長い時間の、前後編にわたるお話になるかと思いますが、ご容赦ください。B.1.2. まず今回は、哲学と科学という言葉について、考えてみたいと思います。枕として聞いてもらいたいのですが、「真実」なんて言葉を使って研究しているのは哲学者くらいだと、いわれることがあります。つまり、科学者は「真実」という言葉を使った研究をもうしていない、ということです。B.1.3. 確かに、自然科学、社会科学、人間科学など、統計調査や臨床、フィールドワークを使って新たな知識を生み出している科学者が、自分の行なっている実験の正しさ、客観性を測るために用いられる言葉は、「真実」ではありません。客観性の基準として、信頼性や妥当性といった言葉が、よく用いられています。B.1.4. なお厳密には、科学のなかにも主に実験室などで行われる量的研究と言われる分野と、主に実験室の外でのインタビューやフィールドワークによる質的研究と言われる分野があり、その双方ともに異なる研究の基準を置いているのですが、今回は量的な研究に絞って、お話しできればと思っています。B.1.5. さて、量的な研究が基本となっている科学の分野では、その知識の正しさの基準を、既存の知識や実験手法、または単発の実験結果(エヴィデンス)にのみ置いているのではありません。多くの国と地域でなされたいくつもの実験結果(エヴィデンス)と比べてテストし続けるというプロセス、そしてそのプロセスで変化する、実験結果の正しさの確率においています。B.1.6. わかりやすくするために、1つ例え話を入れてみたいと思います。たとえば、美味しいと評判の料理のレシピ本があったとましょう。そのレシピがほんとうに美味しい料理のレシピであるかどうかを判断するとき、私たちはレシピ本そのものの美しさや、そのレシピを考案した料理人の調理の巧みさ、またその通りに作って確かに美味しい料理が出来上がったという記事が1件あっただけでは、まだ信頼するには足りないと感じることでしょう。B.1.7. つまり、レシピ通りに作って確かに美味しい料理が出来上がるかどうかは、その料理をレシピ通りに作ることができる料理人によって、レシピ通りの食材と調理器具が適切な順序で取り扱われるかという大前提ももちろん、この調理を他の料理人も同じように反復できる手順がきちんと掲載されているかどうかにかかっています。B.1.8. では、実際にそのレシピをさまざまな国の、さまざまな地域の人が試してみたとしましょう。ほとんどの人には美味しいと評判だったのに、一部の人々には不評だったとしましょう。原因はどこにありそうでしょうか。B.1.9. 実はこのレシピ本が、資格を持つ料理人が作ったところ、まだ8割の確率でしか美味しい料理にならないレシピだったことがわかったら。もし既存の手順を見直し、9割9分の確率で美味しい料理になるレシピを作れたとしたら。後者のレシピの方が美味しい料理を生み出すことへの信頼性は高まり、そのレシピに掲載されている調理の順序にも妥当性があると感じられることでしょう。B.1.10. この譬え話でのレシピ改訂のプロセスのように、科学者はつねにその実験結果だけでなく、そもそもの実験の条件をしっかりと記録して、保管し、いざとなれば他の科学者と検討してもらうことができるようにしておく必要があります。B.1.11. なぜならその実験結果は、単にその結果だけをみて「これが事実だ、真実だ」と判断することができないものだからです。どのように実験したのか、そのプロセスを示すだけでなく、毎回の実験でその条件がしっかりと同じ条件で行...
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  • A01 世界という言葉の途方もなさ──知識と世界の関係性について
    2026/10/18

    A. 知識について

    A.1. 世界という言葉の途方もなさ──知識と世界の関係性について

    A.1.1. このカテゴリーでは、知識について取り上げます。基本的に、哲学は知識として蓄積され、保存され、普及していきます。では、そもそも知識とはどんなものなのか。ここでは、そうした知識についての考えるときの前提となる考え方、ものごとの感じ方を、なるべく一つずつ紹介していきたいなと思っています。

    A.1.2. 今回は、世界と知識の関係性についてです。そもそも、「世界」とはなんでしょう。地球全体のことでしょうか。この意味で「世界の半分をやろう」というなら、地球を半分こすれば良さそうです。どこからどこまでが半分と言えるのか、揉めそうですけれど。

    A.1.3. 一方で、「鉱物の世界」や「古代メソポタミアの世界」、「ミツバチの世界」や「子どもの世界」、また「アートの世界」というように、「世界」という言葉にはもっと多様な、個性的な意味合いが含まれているように思います。これらの人間的な、社会的な世界も、物理的な、地理的な世界に加えるとしたら、どう定義したものでしょう。

    A.1.4. 仮に、私たちの生きている「世界」を、あらゆるモノ、またヒトを含む生き物が経験してきた過去の出来事、また現在経験している出来事の全体として考えてみます。

    A.1.5. するとその「世界」には定義上、宇宙の誕生から生命の誕生、また文明の誕生といった壮大な過去の出来事も含まれますし、ある人が初めて自転車に乗れた日や、大きな挫折を味わった日など、プライベートな過去の出来事も全て含むことができるようになります。

    A.1.6. もちろん、あるアーティストが苦難の末、ようやく作品を完成させた日という文化的に大事な出来事も含まれることでしょうし、もっと小さなところでは、地下鉄のシートに埃がついたというような、取るに足りない日常の出来事も含まれることでしょう。

    A.1.7. それだけ多くの出来事のぜんぶについての精確な知識を、私たちは獲得したり、記録したり、人に伝えたりできるでしょうか。おそらく、誰にもできることではありませんね。それほど「世界」は途方もないもののようです。

    A.1.8. その意味で「世界」を完全にコピーするような知識も、できそうにありません。たとえ地下鉄のシートについた埃一つを見たという、個人的にも些細な思い出であったとしても、それが再現されていなかったら、それはわたしたちが日常、まさにいま経験している「世界」とは別の何かです。

    A.1.9. 誰もが自分なりの仕方で、日常的に「世界」について知っています。どんなに小さなことでも、それは「世界」を構成するものとして、また知識としても、大切にされるべきものではないかと思うのです。


    参考文献

    Gabriel. M. (2017). Why the World Does Not Exist. trans. G. Moss. Polity. (清水一浩訳『なぜ世界は存在しないのか』講談社,2018年)

    Heidegger, M. (1953/2010). Sein und Zeit. Max Niemeyer Verlag. (Being and Time. trans. J. Stambaugh. State University of New York Press. 細谷貞雄訳『存在と時間(上・下)』筑摩書房,1994年)

    Schutz, A. (1964). On Multiple Realities. In: M. Natanson, (Ed.). Collected Papers, Vol. Ⅰ: The Problem of Social Reality. (pp. 207-259). Martinus NijHoff. (渡部光・那須壽・西原和久訳「多元的現実性について」『アルフレッドシュッツ著作集 第2巻 社会的現実の問題Ⅱ』マルジュ社,9-80頁,1985年)

    Wittgenstein, L. (2024). Tractatus Logico-Philosophicus. trans. B. McGuiness & D. Pears. Routledge. (野矢茂樹訳『論理哲学論考』岩波書店,2003年)

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  • はじめに
    2026/10/18

    コンセプト/ 哲学する人を応援するポッドキャスト/ リスナーのイメージは、哲学っぽいことに興味がある、または悩みがある中高大学生 / 構成は主にテーマごとの回、雑談回(ゲストも?)/ 相談や質問は余裕が生まれたら /自己紹介: アート教育哲学が専門。アートと教育の関係性について哲学しています/ アートはコミュニケーションを生むものであればアートというとても広い定義/ 地域コミュニティと学生がコミュニケーションする余地をアートがどのように生み出すか実践研究中/多世代、多様なルーツ、ジェンダーの多彩な人々の間におけるアートのコミュニケーションの可能性/

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