エピソード

  • 聖徳太子(6)片岡飢人伝説と「世間虚仮」の遷化
    2026/08/20
    最終話は、聖徳太子の晩年の伝説と、静かな最期についてのお話です。
    613年、太子が片岡山を通った際、道端で飢えと寒さに倒れている旅人を見つけました。太子は深く哀れみ、自分の食べ物と着ていた紫の衣を与え、歌を詠み交わしました。旅人は翌日亡くなり手厚く埋葬されましたが、数日後に太子が墓を確認させると、死体は消え、畳まれた衣服だけが残されていました。「あの者は聖人に違いない。聖人を知るのは聖人である」と人々は太子をいっそう敬いました(のちにこの旅人は達磨大師の化身であったと伝えられます)。
    そして622年、太子は49歳で病に倒れます。死を悟った太子は「世間虚仮、唯仏是真(せけんこけ、ゆいぶつぜしん=この世のあらゆるものは虚しく仮のものであり、ただ仏の教えだけが真実である)」という深い言葉を残し、愛する妃とともに静かに息を引き取りました。
    数々の伝説と理想を遺し、駆け抜けた49年の生涯。聖徳太子の志は、今も日本の歴史の中に生き続けています。
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  • 聖徳太子(5)10人の言葉を聞き分けた「豊聡耳」と仏教興隆
    2026/08/16
    第5話は、聖徳太子の代名詞ともいえる超人伝説と、文化人としての深い側面をご紹介します。
    太子には「豊聡耳(とよとみみ)」という異名があります。ある時、太子の前に10人の人々が一度に押し寄せ、それぞれ異なる悩みや訴えを同時に話し始めました。しかし太子はその10人の言葉をすべて聞き分け、一人ひとりに的確な助言を与えたと伝えられています。それほど人の話によく耳を傾け、鋭い判断力を持っていたことを示す伝説です。
    また太子は、仏教の教えを深く理解した学問家でもありました。難解な仏教経典の解説書『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』を自ら執筆し、斑鳩(いかるが)の地には世界最古の木造建築群として知られる「法隆寺」を建てました。
    政治家としてだけでなく、思想家・文化人としても飛鳥文化の黄金期を築き上げたのです。
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  • 聖徳太子(4)遣隋使・小野妹子と「日出づる処の天子」
    2026/08/13
    第4話は、当時の世界大国・隋(中国)との対等な外交に挑んだ、スケールの大きな外交エピソードです。
    607年、聖徳太子は小野妹子らを「遣隋使(けんずいし)」として隋へ派遣しました。その際、隋の皇帝・煬帝(ようだい)に送った国書には、こう記されていました。
    「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや(日が昇る国の天子が、日が沈む国の天子へ手紙を送る。お元気ですか)」
    中華至上主義を掲げ、自らを唯一の絶対者と信じていた煬帝は、「対等な立場」で呼びかけてきた日本の無礼さに激怒したといわれます。しかし同時に、自国と同等の気概を持つ東の国の存在を視覚させられることとなりました。
    太子はこの外交を通じて隋との国交を開き、先進的な制度や学問、仏教文化を貪欲に吸収することで、日本の国家としての格を大きく引き上げたのです。
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  • 聖徳太子(3)冠位十二階と十七条憲法~和を以て貴しとなす~
    2026/08/09
    第3話は、推古天皇の摂政となった聖徳太子が推し進めた、日本の歴史を変える政治改革のお話です。
    593年、日本初の女性天皇である推古天皇のもとで摂政に就任した太子は、豪族中心の乱れた世を改め、天皇を中心とするまとまりのある国家づくりを目指しました。
    その第一歩が「冠位十二階」です。それまでの「家柄」で身分が決まる仕組みを改め、個人の才能や功績に応じて12段階の冠を授けるという、画期的な実力主義の制度を導入しました。
    さらに翌年、役人たちの道徳や心構えを示した「十七条憲法」を制定します。その第1条に掲げられたのが、有名な「和を以て貴しとなす(わをもっておっととしとなす)」という言葉です。争いを避け、人々がしっかり話し合って物事を決めることの大切さを説いたこの理念は、1400年の時を超えて今なお日本の心として受け継がれています。
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  • 聖徳太子(2)物部氏との決戦と四天王像
    2026/08/06
    第2話は、14歳となった太子が直面した国家の命運を分ける決戦のエピソードです。
    当時、大陸から伝わった「仏教」を受け入れるべきとする蘇我馬子(そがのうまこ)と、日本の伝統神を重んじて激しく反対する物部守屋(もののべのもりや)の間で激しい対立が起こりました。用明天皇の崩御をきっかけに、ついに両者は武力衝突へと発展します。
    当時14歳の聖徳太子も蘇我軍とともに参戦しますが、軍事力に勝る物部軍の前に苦戦を強いられます。そこで太子は白雲木の木を削り、仏教の守護神である「四天王」の像を作り、「この戦いに勝利できれば、四天王を祀る寺院を建立します」と髪に戴いて戦勝を祈願しました。
    太子の誓願により軍の士気は一気に高まり、見事物部氏を破って戦乱は収束しました。この時に誓った約束が、のちに大阪の地に建立される日本最古の官寺「四天王寺」となったのです。
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  • 聖徳太子(1)馬小屋での誕生と「南無仏」の奇跡
    2026/08/02
    みなさんこんにちは。今回の聖徳太子シリーズ第1話は、太子の誕生にまつわる神秘的なエピソードをお届けします。
    飛鳥時代の574年、用明天皇の皇子として生まれた聖徳太子。本名は「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」と呼ばれます。この名の由来には有名な伝説があります。母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が宮中を散歩中、馬小屋(厩)の入り口にさしかかったところで突如産意を催し、そのまま皇子を出産されたといわれています。
    さらに奇跡は続きます。太子がわずか2歳になった時のこと。旧暦の2月15日、釈迦が入滅したとされる日の早朝、幼い太子は東に向かって小さな手を合わせ、「南無仏(なむぶつ)」と唱えられたと伝えられています。
    幼少期からただ者ではない聡明さと霊性を漂わせていた聖徳太子。その偉大な生涯は、まさに奇跡的な誕生から幕を開けたのです。
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  • 坂本龍馬(6) 平和的変革「大政奉還」の実現と近江屋での急逝
    2026/07/09
    薩長同盟という強大な対抗勢力を築いたのち、龍馬は土佐藩の後援も得て、江戸幕府が自主的に政権を放棄する平和的な国家の移行「大政奉還」(1867年)を実現させました。しかし、日本の新しい夜明けを見届けた直後の慶応3(1867)年11月、京都の近江屋において何者かに襲撃され、志半ばで暗殺されました。彼が近江屋でどのように戦ったのか、また亡くなる直前(慶応3年11月)に記した手紙に何を込めたのかは、今も歴史の探究対象となっています。
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  • 坂本龍馬(5) 感情をビジネスで繋いだ「薩長同盟」の奇策
    2026/07/07
    当時、激しく敵対していた薩摩藩と長州藩を結びつけるため、龍馬は感情的なわだかまりを和らげる実質的な経済連携(ギブ・アンド・テイク)を仲介しました。幕府の監視で武器が買えない長州藩のために薩摩藩名義でグラバーから最新武器を購入して供与し、その見返りとして、京都に多くの兵を抱えて食糧不足に悩む薩摩藩へ、長州藩から兵糧米500俵を供与させたのです。この利害を一致させる見事な交渉により、1866年に歴史的な「薩長同盟」の締結が実現しました。
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