エピソード

  • 【仏教と鬼】──恐れの対象から自らの姿を照らす鏡へ
    2026/09/02
    🔶鬼のルーツとインド・中国から日本への変遷現代で「鬼」というと、人を襲う化け物や、地獄で亡者を痛めつける恐ろしい存在をイメージする人が多いかもしれません。しかし、古代インドの初期仏教における地獄(サンスクリット語で「ニラヤ」)には、もともと「鬼」という概念はありませんでした。地獄・餓鬼・畜生の「三悪道(さんあくどう)」において、地獄で亡者を懲らしめる役目は「獄卒(ごくそつ)」と呼ばれていました。これが中国に伝わった際、漢訳によって「獄卒鬼」や「鬼」と表現されるようになります。また、鬼が「虎の皮のパンツ」を履いて角を生やしているイメージは、ヒンドゥー教のシヴァ神(退治した虎の皮を腰に巻く姿)やヤクシャ(夜叉)などのイメージが混ざり合ったものです。さらに中国では死者の霊を「鬼(キ)」と呼び、人が亡くなることを「鬼籍(きせき)に入る」と表現する文化も生まれました。日本に伝わると、目に見えない疫病や災厄(おに=隠・おん)が恐ろしい容貌として可視化され、今日の鬼のイメージが定着していったのです。🔶親鸞聖人が説く鬼神への恐れからの解放浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の中で、「鬼」や「鬼神(きじん)」という言葉を用いておられます。当時の人々は、目に見えない病気や災難を鬼や邪神の祟り(たたり)として深く恐れ、それらを鎮めるための祈祷や迷信に捉われていました。それに対し親鸞聖人は、「そうした目に見えないものや鬼神を恐れて祀ったり、おもねったり(鬼神仕え)する必要は全くない」と強く示されました。阿弥陀さまの「絶対にあなたを救う」という大いなる本願を信じ、お念仏を称えて生きる者は、どのような鬼神や災厄からも護られているから大丈夫であると解き放たれたのです。外なる恐怖に脅かされていた当時の人々にとって、この教えは心の底から救いとなるものでした。🔶妙好人・浅原才市にみる「わが心の中の鬼」浄土真宗でお念仏の喜びの中に生きた人々を「妙好人(みょうこうにん)」と呼びますが、石見国(現在の島根県大田市温泉津町)の妙好人・浅原才市(あさはら さいち)さんにまつわる味わい深いエピソードがあります。ある時、画家が才市さんの肖像画を描いて見せたところ、とてもよく似ていたのにもかかわらず、才市さんは「これはわしじゃない」と怒り出しました。そして「わしは鬼じゃ。頭に角を二本書いてくれ」と画家に頼み込んだのです。画家が言われた通り頭に角を描き加えると、才市さんは「これこそ真実のわしの姿じゃ」と大変喜び、深く感謝したといいます。これは「私の中には、他人を羨み、妬み、腹を立てる自尊心や煩悩(鬼)が渦巻いている」という、自らの醜い姿を鋭く見つめた言葉でした。才市さんは、自らの内に棲む鬼の姿(煩悩具足の凡夫)を自覚したからこそ、そんな浅ましい自分をも決して見捨てずに包み込んでくださる阿弥陀さまの慈悲のありがたさを誰よりも深くかみしめていたのです。🔶外の鬼を恐れるのではなく内なる鬼を見つめる近年、漫画作品などの影響もあり「鬼」という存在への関心が高まっていますが、仏教の視点は「外にいる恐ろしい鬼を退治する」のではなく、「自分自身の心の中に潜む鬼を見つめ直す」ことに向けられています。怒り、嫉妬、貪りといった煩悩に振り回され、ともすれば他者を傷つけてしまう私たちの心こそが「鬼」そのものです。「鬼は外、福は内」と外に退散させるのではなく、実は「鬼は内」にこそ存在するという現実を受け止めること。そして、そんな鬼のような私をそのまま救い取ってくださる阿弥陀さまのみ教えに出会い、自らを照らす鏡として「心の中の鬼」を見つめていく姿勢こそが、現代に生きる私たちに求められている大切な歩みなのです。🔶今週のまとめ【1】現代の鬼のイメージは、インド仏教の「獄卒」やヒンドゥー教のシヴァ神の姿、中国の死者霊信仰、日本の「隠(おん・災厄)」の思想が合流して形成されました。【2】中国で死者の霊を「鬼」と呼んだ文化は、...
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  • 【築地本願寺】──江戸の歴史と現代に開かれた新たな挑戦
    2026/08/26
    🔶築地本願寺の歴史と「築地」の地名の由来東京都内には約2,800の寺院が存在しますが、浄土真宗本願寺派は338か寺にとどまります(熊本県の464か寺よりも少ない数です)。その中で中心的な拠点となっているのが、豊かな歴史とユニークな特徴を持つ「築地本願寺(つきじほんがんじ)」です。築地本願寺は江戸時代初期の元和3年(1617年)、浅草近くの横山町に「江戸浅草御坊」として建立されたのが始まりです。しかし、明暦3年(1657年)の「明暦の大火」によってお堂を焼失。再建にあたり江戸幕府から与えられた土地は、当時八丁堀沖の海上でした。そこで海を埋め立てて地盤を築き、本堂を建てたことから「築地(ついち・つきじ)」という地名が誕生したといわれています。その後、1923年(大正12年)の関東大震災に伴う火災で再び本堂を焼失しますが、1934年(昭和9年)に再建され、現在の壮麗な姿となりました。🔶伊東忠太博士によるシルクロードとインド様式の建築美現在の築地本願寺の建築デザインを手掛けたのは、東京帝国大学(現・東京大学)名誉教授で建築家の伊東忠太(いとう ちゅうた)博士です。建築研究のためにアジア各国を旅した伊東博士と、シルクロード探検(大谷探検隊)で知られる西本願寺第22鏡如(きょうにょ)上人・大谷光瑞(おおたに こうずい)門主との深い親交がきっかけとなり、この唯一無二の建物が作られました。古代インドをはじめとするアジアの仏教建築を模したオリエンタルな外観は、一般的な日本の伝統的寺院とは一線を画し、石造りでステンドグラスや動物の彫刻が施されたエキゾチックな雰囲気を醸し出しています。また、本堂内部は正座を必要としない全席「椅子席」となっており、後方には2,566本のパイプで構成された本格的なパイプオルガンが設置され、コンサートなども開催されています。🔶終活サポートから結婚相談所まで──お寺の敷居を下げる試み築地本願寺では、現代社会における「お寺の敷居の高さ」を解消するため、革新的な取り組みが次々と行われています。その一環として、人生の終末期やエンディングノート作成に寄り添う「終活サポート」をはじめ、なんと境内に「結婚相談所」を開設・運営しています。これは僧侶やご門徒に限らず広く一般の方々も利用可能であり、成婚後はお浄土の阿弥陀さまへ報告・参拝する温かい試みとして親しまれています。🔶「第十八願」にちなんだ18品の朝ごはんと地域交流境内に併設されている人気の「築地本願寺カフェ Tsumugi(ツムギ)」では、浄土真宗で最も根幹となる「阿弥陀如来の第十八願(すべての生きとし生けるものを救うというお誓い)」になぞらえた「18品の朝ごはん」が提供されています。お粥やお味噌汁とともに18個の小鉢が並ぶ豪華な朝食セットは、お肉や魚介も取り入れたバラエティ豊かなメニューで、観光客や周辺住民の間で大好評を博しています。銀座からも近い立地を活かし、東京の7月のお盆に合わせた大賑わいの盆踊り大会や、仏教以外のさまざまな分野の研究者を招いた勉強会など、多角的な交流の場を創出しています。「時代やニーズに合わせて変化し、人々に寄り添う」築地本願寺の先進的な姿勢は、全国の寺院や地方のお坊さんたちにとっても大きな学びと刺激を与え続けています。🔶今週のまとめ【1】築地本願寺は1617年に浅草近くで創建され、1657年の明暦の大火後に海を埋め立てて土地を「築いた」ことが「築地」という地名の由来となっています。【2】1934年に再建された本堂は建築家・伊東忠太博士と大谷光瑞門主の交流から生まれ、古代インド様式の外観やステンドグラス、パイプオルガンや全席椅子席を備えたエキゾチックな建築です。【3】「お寺の敷居を下げる」取り組みとして、人生の終末期を支える「終活サポート」や、一般の人々も利用できる「結婚相談所」などの先進的な事業を展開しています。【4】境内のカフェでは、阿弥陀如来の「第十八願」にちなんだ「18品の朝ごはん」が話題を呼んでおり、食を通じても教えや存在に親しんでもらう工夫が施されています。【5】東京の7月盆...
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  • 【地域の繋がり】──無縁化社会におけるお寺の役割と「寄り添い」
    2026/08/19
    🔶無縁化社会の現状と「地縁・血縁」の喪失現代社会では、「無縁化」という深刻な問題が進行しています。マンションやアパートで隣に誰が住んでいるかわからない状況が当たり前となり、日本全体で一人暮らしの割合は約34.6%に上り、65歳以上の高齢者においては5人に1人が単独世帯となっています。さらに2040年には全体の約4割が一人暮らしになるとも予測されています。かつての日本社会を支えていた「家」や「家族」といった地縁・血縁の繋がりが失われ、各個人が孤立して苦しみを抱え込むことで、孤独死や様々な犯罪リスクなどの社会問題が浮き彫りになっています。🔶宗教者の役割と「ネガティブ・ケイパビリティ」こうした無縁化社会の中で、お寺や宗教者の役割が改めて問われています。お坊さんは医師のように医療行為を行ったり、物質的な支援をしたりすることはできません。しかし、「教えを説くこと」、そして「ただ話を聴くこと」が大きな役割となります。心理学や文学の世界には「ネガティブ・ケイパビリティ(Negative capability)」という言葉があります。これは「答えが出ない、どうしようもない事態に耐える能力」のことです。「なぜ私がこんな病気になったのか」「なぜ大切な人を亡くさなければならなかったのか」といった、科学や医療では答えを出せない不条理な問いに対して、すぐに解決策を提示するのではなく、その悲しみに共に留まり、共感し、寄り添い続けることこそが宗教者の使命なのです。🔶AIにはできない「生身の人間」による傾聴現代の若い世代は、悩み事や相談事をAI(人工知能)に投げかけることが増えています。確かにAIは、膨大なデータから論理的で適切な回答(レスポンス)を瞬時に返してくれるかもしれません。しかし、AIは人間ではありません。生身の人間が同じ空間に座り、声のトーンや表情を感じ取りながら、答えの出ない苦しみにただじっと耳を傾ける「傾聴(けいちょう)」の時間は、決してAIには代替できない温もりを持っています。身近に「自分の話を聴いてくれる人がいる」と知っておくこと自体が、人々の心を軽くする大切な拠り所となります。🔶再評価される月忌参りとお寺のコミュニティお寺が古くから行ってきた伝統的な活動は、現代において「ご縁づくり」の場として再評価されるべき意味を持っています。一つは「月忌参り(がっきまいり)」です。これは毎月の命日にお坊さんが各家庭を訪問してお経をあげる習慣ですが、遠方に住む家族に代わって月に一度安否を確認し、対話をするという見守りの役割も果たしています。もう一つは「お寺という場所のコミュニティ機能」です。月に一度の「ご法座(ごほうざ)」をはじめ、仏教婦人会や子ども会など、人々が集い語り合う場としてのお寺の存在意義は、地域社会の繋がりが希薄化した今だからこそ一層重要になっています。昔のようにお寺の軒先で気軽にお坊さんと話ができるような、敷居の低い開かれた場所であり続けることが求められています。🔶今週のまとめ【1】現代は地縁・血縁が希薄化した「無縁化社会」であり、一人暮らしの増加による孤独死などが深刻な社会問題となっています。【2】宗教者の役割は、医療行為や物質的支援ではなく、人々の悲しみに寄り添い、教えを伝えながらただ話を聴くことにあります。【3】「なぜ私が」という科学で解決できない問いに対し、答えを急がずに共に留まり続ける「ネガティブ・ケイパビリティ」が宗教者には求められます。【4】悩み事をAIに相談する時代にあっても、生身のお坊さんによる「傾聴」は人々の心を軽くする代替不可能な心の拠り所となります。【5】お坊さんが毎月訪問する「月忌参り」や、人々が集う「ご法座」などのお寺の伝統的なコミュニティ機能が、現代の孤立を防ぐご縁づくりの場として再評価されています。次回テーマは「築地本願寺のお話」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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  • 【いのちのご縁】──因幡の源左に学ぶお盆と阿弥陀さまの慈悲
    2026/08/12
    🔶因幡の妙好人・足利源左と父親の遺言お盆を迎えるにあたり、浄土真宗で教えを喜び生き抜いた人物「妙好人(みょうこうにん)」として知られる「因幡の源左(いなば の げんざ)」こと、足利源左(あしかが げんざ)さんの生涯とその教えをご紹介します。源左さんは天保13年(1842年)、因幡国(現在の鳥取県)にて農家を営む父・善輔さんと母・おちよさんの子として生まれました。安政6年(1859年)、全国的にコレラが大流行した際、18歳だった源左さんは父・善輔さんを40歳の若さで亡くします。激しい苦しみの中、父は最後の力を振り絞り、「おらが死んだら親様を頼め」と言い残して息を引き取りました。「親様(おやさま)」とは阿弥陀さまのことです。父を失った源左さんは、若くして一家の働き手として厳しい農業と家族の生活を支えることになりました。🔶荷を預ける牛の姿に開けた「阿弥陀さまの救い」父の遺言である「親様を頼むとはどういうことか」という根源的な悩みを抱えた源左さんは、10年以上にわたり各地のお寺や高僧を訪ねて教えを請いましたが、心の霧が晴れることはありませんでした。30歳を過ぎたある早朝、源左さんはいつものように牛を引き連れて草刈りに出かけました。刈り取った草の束のほとんどを牛の背に載せましたが、「すべて背負わせては牛がかわいそうだ」と、1束だけ自ら背負って帰り道を歩んでいました。その途中、激しい腹痛に襲われて動けなくなってしまいます。限界を感じた源左さんが自ら背負っていた最後の草束も牛の背に預けた瞬間、不思議なことに腹痛がすっと治まりました。その時、源左さんの心はパッと開かれました。「自らの力で命の問題や死の不安という重荷を背負う必要はない。『その重荷のすべてをわたしが引き受けるぞ』と常に呼びかけてくださる阿弥陀さまがおられるのだ」と悟ったのです。自らの力に頼るのをやめ、すべてを牛(阿弥陀さま)に任せた時、父の遺言の真意が開かれました。以来、源左さんは生涯を通じてお念仏の歓喜に包まれた人生を歩まれました。🔶追善供養ではなく「私が仏法に出会う」お盆の本質お盆は、亡くなった方々の魂を呼び戻して慰める「追善供養」のための行事と思われがちです。しかし浄土真宗においては、亡くなられた方は阿弥陀さまの導きによってすでに仏となられ、いま生きている私たちのすぐそばに寄り添ってくださっていると受け止めます。したがって、霊魂を遠くから運んでくるといった行事や風習を必要としません。お盆の本質とは、亡き方の命のご縁を通して、「いま生きているこの私」が自らの命のあり様を見つめ直し、阿弥陀さまの救いのみ教え(お念仏)に出会わせていただくことにあります。源左さんが父の死という苦難のご縁から阿弥陀さまの慈悲に出出会われたように、お盆とは生きている私たちが教えに導かれるための尊い機会なのです。🔶お墓参りの心得と熱中症への配慮お墓参りもまた、故人に何かを買い与えたり善根を施したりする場ではなく、先祖や亡き親しい方々のご縁によって私自身が命の尊さに気づかされ、み教えに導かれる場です。ご家族やご親戚が集い、故人の思い出を語り合いながら自分自身の生を見つめ直す時間は、かけがえのない人生の糧となります。なお、夏の時期にお墓参りへ出かけられる際は、熱中症への十分な注意が必要です。墓石や石畳は強烈な太陽光線によって熱を蓄え、周囲の放射熱が非常に高くなります。日陰も少ないため、日中の厳しい暑い時間帯を避け、早朝や夕方の涼しい時間帯にお参りされることをお勧めします。水分や塩分の補給を欠かさず、ご自身の身体と命を大切にお守りいただきながら、心穏やかにお参りください。🔶今週のまとめ【1】鳥取の妙好人・足利源左さんは、18歳の時にコレラで父を亡くし、「おらが死んだら親様(阿弥陀さま)を頼め」という遺言を胸に生きていかれました。【2】自ら背負っていた草束を牛の背に預けて腹痛が治まった経験から、「命の問題や苦難のすべてを引き受けてくださる阿弥陀さま」のお心に気づき、お念仏を喜ぶ生涯を...
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  • 【戦争と平和】──真の平和を問い直す教えと「怨親平等」の智慧
    2026/08/05
    🔶原爆投下の日と戦時下のお寺が背負った歴史8月6日の広島、8月9日の長崎への原子爆弾投下、そして8月15日の終戦の日を迎えるにあたり、戦争と平和について改めて深く見つめ直します。第二次世界大戦において、日本全体で約310万人もの尊い命が失われました。当時、全国のお寺も「金属回収令(金属類回収令)」によって梵鐘(ぼんしょう)や仏具の拠出を強要されました。浄土真宗本願寺派においても、梵鐘があったお寺のおよそ9割が供出に応じ、その多くは二度と戻ってくることはありませんでした。さらに、教団自体が当時の国家体制の中で戦争に協力・加担してしまったという重い反省の歴史があります。過去のあやまちを深く省み、二度と惨禍を繰り返さないために平和を求め続けることこそ、現代のお寺や仏教徒に課せられた大切な責務です。🔶ガルトゥング博士が説く「三つの暴力」と積極的平和現代社会における「平和」について考える際、平和学の父と呼ばれるノルウェーの学者ヨハン・ガルトゥング(Johan Galtung)博士(2024年没)の提唱した概念が大きな示唆を与えてくれます。博士は、単に国と国との戦争(直接的暴力)がない状態を「消極的平和」と呼び、それだけでは十分ではないと指摘しました。ガルトゥング博士は、社会の暴力性を以下の三つに分類しています。直接的暴力:戦争やテロ、暴行など、心身に直接危害を加える行為。構造的暴力:社会の仕組みや貧困、差別により、本来助かるはずの命が失われたり人権が侵害されたりする状態。文化的暴力:宗教や思想、伝統、道徳などが、直接的暴力や構造的暴力を正当化・合理化してしまうこと。戦争が終結していても、不当な差別や激しい貧困、不平等が放置されているならば、それは真の平和とは言えません。これら「三つの暴力」を取り除き、環境問題の克服や人権の尊重、飢餓の解消といった「人間の安全保障」が満たされた状態を「積極的平和」と呼びます。こうした意識が社会の当たり前(伝統・慣習)として根付いた状態こそが、私たちが目指すべき「平和文化」なのです。🔶『ダンマパダ』の言葉と「怨親平等」の心完璧な平和文化の構築は一見すると遠い道のりに思えますが、2500年前に説かれたお釈迦さまの言葉の中に、その根本となる智慧が見出されます。最古の仏典の一つである『ダンマパダ(法句経)』において、お釈迦さまは次のように語られています。「実にこの世においては、怨みに報ゆるに怨みをもってしたならば、ついに怨みのやむことがない。怨みを捨ててこそやむ。これは永遠の真理である。」仏教には「怨親平等(おんしんびょうどう)」という教えがあります。これは、自らに害を加える「怨敵(おんてき)」であっても、自らに親しい「親しい者」であっても、そこに境界線を引かず、等しく慈悲の心で向き合う姿勢を指します。「やられたらやり返す」「恨みには恨みで報いる」という連鎖の中にいる限り、争いや戦争が止むことは絶対にありません。ガルトゥング博士が目指した平和の究極も、まさに相手を恨まず、報復の連鎖を自ら断ち切るこの精神に通じています。相手を憎む心を離れ、他者への深い理解と慈悲を持つことこそが、真の平和へと踏み出す第一歩となるのです。🔶今週のまとめ【1】8月6日・9日の原爆投下や終戦の日を前に、戦時中の「金属回収令」による梵鐘の供出や、戦争に加担してしまった教団の反省を振り返り、平和への思いを新たにします。【2】平和学の父ヨハン・ガルトゥング博士は、単に戦争がない状態(消極的平和)だけでなく、社会構造や文化に潜む暴力までを取り除いた「積極的平和」の重要性を提唱しました。【3】貧困や医療格差といった「構造的暴力」や、それを正当化する「文化的暴力」を無くし、人間の安全保障や人権が守られる「平和文化」を築くことが求められています。【4】お釈迦さまは『ダンマパダ(法句経)』において「怨みに報ゆるに怨みをもってしたならば、ついに怨みのやむことがない」と説き、報復の連鎖を断つ永遠の真理を示されました。【5】敵味方の隔てを越えて等...
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  • 【仏教とハワイ】──サトウキビ畑から広がるお念仏と支え合いの歴史
    2026/07/29
    🔶ハワイ移民の歴史と「元年者」から「官約移民」へハワイにおける仏教の歴史は、アメリカに併合される以前のハワイ王国時代、サトウキビ農園の労働力として渡った日本人移民の歴史と深く重なっています。19世紀半ば以降、ハワイにはサトウキビ農園の労働力として、中国、日本、ポルトガル、プエルトリコなど、世界各地から多くの移民が渡るようになりました。1868年(明治元年)、約150人の日本人労働者がハワイへ渡りました。日本からハワイへの最初の組織的な集団移住とされ、明治元年に渡航したことから、彼らは「元年者(がんねんもの)」と呼ばれています。その後、日本とハワイ王国両政府の取り決めに基づき、1885年(明治18年)から政府公認の「官約移民」が始まりました。1886年(明治19年)には、日本人移民の待遇や保護などを定めた日布渡航条約が正式に締結されました。出稼ぎを目的とした移民には、広島、山口、熊本など、西日本の農村出身者が多く含まれていました。さらに1900年以降は、沖縄からも多くの人々がハワイへ移住しました。20世紀初頭には、日本人はハワイのサトウキビ農園労働者の中で、最大規模の集団となりました。🔶開教使の派遣とハワイ本願寺の誕生過酷な労働環境に置かれた移民たちの心のよりどころとして、1889年(明治22年)、浄土真宗本願寺派の僧侶・曜日蒼龍(かがひ・そうりゅう)師が単身ハワイへ渡り、日本人移民を訪ねて布教巡回を行いました。1897年(明治30年)には、西本願寺から里見法爾(さとみ・ほうに)師が開教監督として、今村恵猛(いまむら・えみょう)師が開教使として正式に派遣されました。1899年(明治32年)には、本願寺派としてハワイ最初の本堂となるハワイ本願寺が完成しました。これが、後の本派本願寺ハワイ別院へと発展していきます。当初、移民たちは日々の生活に追われ、仏教の教えに耳を傾ける余裕を持てないことも少なくありませんでした。その後、低賃金や厳しい労働環境を背景に労働争議が起きた際には、今村恵猛師らが農園主と日本人労働者の間に立ち、事態の収拾に努めました。こうした活動を通して、農園主側からも本願寺への理解が得られるようになり、各地の農園周辺に寺院や布教所が設けられていきました。本願寺派の公式資料によると、現在、ハワイには32の寺院があります。また、幼児教育から中学校段階までのホンワンジ・ミッション・スクールと、2003年に開校した仏教系高校パシフィック・ブディスト・アカデミーが運営されています。パシフィック・ブディスト・アカデミーは、西洋諸国で初の仏教系高等学校とされています。🔶太平洋戦争の試練と日系社会のアイデンティティ1941年、真珠湾攻撃を契機に日本とアメリカの戦争が始まると、日本人・日系人社会の指導者と見なされた開教使や僧侶の多くが拘束され、アメリカ本土の抑留所へ送られました。ハワイでは、アメリカ本土西海岸のように日系人住民全体が一律に強制収容されたわけではありません。しかし、僧侶、日本語学校の教師、新聞関係者、地域の指導者などが拘束され、残された人々も厳しい監視や差別の中で生活しました。戦後、お寺の活動は再開され、「サンデースクール」と呼ばれる日曜学校や、ボーイスカウト、野球、バスケットボールのクラブチーム、太鼓グループなどの活動を通じて、日系人コミュニティと地域社会を支える文化的な拠点となっていきました。ハワイのお寺では、夏の「盆ダンス(Bon Dance)」やバザーなどの行事が今も盛んに行われています。寺院によっては、バザーで照り焼きチキンなどの料理を販売し、その収益を寺院の維持や地域活動に役立てています。日本の寺院とはまた異なる、地域に開かれた組織的な運営が行われているのです。戦時中、僧侶や日系社会の指導者の一部が抑留され、残された人々も大きな不安や差別の中で暮らしました。それでも、お寺を中心とした集いと盆踊りなどの文化を守り続けた歴史は、異国の地で生きる人々が、自らのルーツとアイデンティティを保つための大切な心の支えとなりました。🔶マウイ島大火災と...
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  • 【心に涼風を】──蝉の声に映る命の無常と今を精一杯生きる教え
    2026/07/22
    🔶二十四節気「大暑」と土用の丑の日の由来一年の中で最も暑さが厳しくなる二十四節気の「大暑(たいしょ)」を迎え、厳しい酷暑が続いています。この時期の風物詩といえば「土用の丑の日」の鰻(うなぎ)ですが、夏場に鰻を食べる風習は江戸時代、夏場に売上が落ちて困っていた鰻屋から相談を受けた蘭学者の平賀源内が、「本日 土用丑の日」という貼り紙を店先に掲げさせたところ大繁盛したことが始まりとされています。こうした猛暑の中、仏嚴寺の前住職である祖父・高千穂将史(まさふみ)が昭和60年(1985年)頃に遺したコラム「心に涼風を」に触れながら、現代を生きる私たちの命のあり方について見つめ直します。🔶松尾芭蕉の句「やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声」の二つの味わいかつてお寺で配布していたコラムには、境内で激しく鳴く蝉(セミ)と、江戸時代の俳人・松尾芭蕉が詠んだ句「やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声」を通じた二つの深い味わいが記されていました。一つ目は「わずか1週間の儚い命であることも知らず、のんきに浮かれてただワシワシと鳴いていることよ」という自省の味わいです。将史元住職は「自分も時折、『お前さん、もう長い命ではないのだよ。何を呆けて暮らしているのか』と自分自身に問いかけている」と述べています。二つ目は「やがて死にゆく運命であることを知りながらも、蝉は今の今を力の限り命を歌い上げていることよ」という感銘の味わいです。儚い命だからこそ、投げやりになるのではなく「今日の1日を精一杯生きねばならない」という教えを、蝉の声が私たちに届けてくれています。🔶時代が変わっても変わらない「命の無常」昭和60年当時、境内に蝉取りに来る子どもたちの姿が減り、室内遊びや塾へと環境が変化していった様子がコラムに綴られていました。現代ではさらに環境が変わり、気温が35度を超える猛暑日には蝉すら鳴かなくなるような酷暑の時代を迎えています。しかし、2500年前のお釈迦さまの時代から、昭和、そして現代に至るまで、科学技術が発達し平均寿命が延びたとしても、決して変わらない事実があります。それは「人間は必ず命を終えていく(無常)」という命のあり様です。どれほど時代や環境が移り変わろうとも、私たちは限られた時間の中で生かされているという根本的な真理は変わりません。🔶お寺という「心のオアシス」と地域のハブかつてのお寺は、境内が子どもたちの格好の遊び場であり、地域の人々が自然と集うコミュニティの拠点(ハブ)でした。江戸時代には、お寺の軒先でお坊さんとお侍さんが酒を酌み交わして語り合うような、極めて身近で開かれた空間でした。「お寺は敷居が高い」と感じられがちな現代ですが、決してそんなことはありません。都市の喧騒や猛暑の中でふと立ち寄り、冷たいお茶を飲みながら心を静め、句やみ教えに触れて「心の涼風」を感じていただくような、地域のオアシスとして気軽にお参りしていただくことが本来のお寺の姿です。🔶今週のまとめ【1】二十四節気の「大暑」や「土用の丑の日」など夏の節目を迎える中、前住職のコラムを通じて「心に涼風」を届ける命の対話が展開されました。【2】松尾芭蕉の句「やがて死ぬ 景色は見えず 蝉の声」には、自らの無常を忘れて呆けて生きる自己への戒めと、有限の命を精一杯生き抜く姿という二つの味わいがあります。【3】昭和60年頃と現代では子どもたちの過ごし方や気候環境が変化しましたが、「人は必ず命を終えていく」という仏教の説く無常の理(ことわり)は変わりません。【4】昔のお寺は子どもたちの遊び場や地域の交流拠点であり、現代においても敷居が高い場所ではなく、誰でも気軽に心を調えられる空間です。【5】慌ただしい日々の中で一息つき、自分自身の命の限界と向き合いながら「今日の1日を精一杯生きる」ことの大切さを学ぶことが、心に確かな涼風をもたらします。次回テーマは「仏教とハワイ」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ ...
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  • 【お盆の意味】──盂蘭盆会の由来と世界に広がるお念仏のご縁
    2026/07/15
    🔶盂蘭盆会の由来と目連尊者の物語お盆の正式名称は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」といい、その語源は古代インドのサンスクリット語である「ウランバーナー(ullambana)」に由来します。これには「逆さ吊りの苦しみ」という意味があります。その由来は『仏説盂蘭盆経(ぶっせつうらぼんきょう)』というお経に説かれています。お釈迦さまの弟子で、優れた神通力を持つことから「神通第一(じんづうだいいち)」と称された目連尊者(もくれんそんじゃ)が、あるとき「亡くなった母は今どこでどうしているだろうか」と自らの神通力で霊界を見渡しました。すると、母親は貪りの罪によって餓鬼道(がきどう)という苦しみの世界に落ちており、まさに逆さ吊りのような凄惨な苦しみを受けていたのです。悲しんだ目連尊者が「どうすれば母を救えますか」とお釈迦さまに乞うたところ、「夏の厳しい修行(安居)が終わる 7月15日に、多くの修行僧たちに食べ物や飲み物をお供えして深く供養しなさい。その功徳によって母親は救われるであろう」と教えられました。目連尊者がその通りにお勤めをすると、母親は無事に餓鬼道の苦しみから解き放たれたといいます。これが、私たちが今日営んでいるお盆の始まりです。🔶日本のお盆の歴史と浄土真宗の受け止め方日本におけるお盆の歴史は非常に古く、『日本書紀』には推古天皇14年(606年)にお盆の行事を行ったという記述が残されています。今からおよそ1400年以上も昔から、日本では亡き人を偲び、命のつながりを確かめる大切な行事として全国へ広がっていきました。なお、一般的にはお盆の飾り付けとして「きゅうりの馬」や「ナスの牛」(精霊馬・精霊牛)を用意する風習がありますが、浄土真宗においてはこれらを用いません。これらは日本古来の民間信仰や民俗風習が仏教行事と結びついて生まれたものです。浄土真宗では、亡くなられた方は阿弥陀さまの導きによって即座にお浄土で仏さまとなられている(往生即成仏)と受け止めるため、迷って現世に戻ってくることもなければ、移動のための乗り物を必要とすることもない、という教えの真髄に基づいているためです。🔶「7月盆」と「8月盆」──明治の改暦に隠された財政事情現在、日本には7月にお盆を行う地域(新暦盆)と、8月に行う地域(月遅れ盆・旧盆)が混在していますが、これには明治時代の「改暦」という近代化政策が大きく関係しています。もともとお盆は旧暦の7月15日に行われていましたが、明治5年、明治政府は西洋諸国と暦を合わせるために太陽暦(新暦)の導入を発表しました。これにより、明治5年12月2日の翌日が一気に「明治6年1月1日」となったのです。月の満ち欠けを基準とする旧暦(太陰太陽暦)は1年が約354日であるため、数年に一度「閏月(うるうづき)」が入って1年が13ヶ月になる年がありました。実は、当時の明治政府は極めて深刻な財政難に陥っていました。旧暦のままだと翌年に13ヶ月目が訪れ、官吏や軍人への給料を1ヶ月分多く支払わなければならなくなります。それを避けるために急遽新暦を導入し、1ヶ月分の支給を免れるという財政対策の側面がこの改暦には隠されていたのです。新暦への突然の移行により、本来の7月15日にお盆をしようとすると、農村部では最も忙しい農繁期と重なってしまい、お盆どころではなくなってしまいました。また、昔の農家にとってお盆は、普段なかなか口にできない大切な白米をいただくお祭りのような意味合いもありました。そこで、生活や農業のサイクルに配慮し、1ヶ月季節を遅らせて平穏にお勤めできるようにしたのが、現在の「8月盆(月遅れ盆)」の始まりです。🔶アメリカ日系社会へ渡った盆踊りとアイデンティティお盆の象徴である「盆踊り」は、本来は一遍(いっぺん)上人などが広めた「踊り念仏(おどりねんぶつ)」という別の宗派の文化に由来するため、日本の浄土真宗においては歴史的にあまり馴染みのないものでした。しかし興味深いことに、太平洋を渡ったアメリカやハワイの日系社会において、この盆踊り(Bon Dance)を文化として定着させ、...
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