『高千穂さんのご縁です。』のカバーアート

高千穂さんのご縁です。

高千穂さんのご縁です。

著者: RKKラジオ
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概要

仏教にまつわる色々なお話を、分かりやすくお話していただく番組です。仏教由来の言葉、豆知識、歴史、迷信、風習、教義、作法などなど。 出演は、熊本市中央区京町にある仏嚴寺の高千穂光正さん。お相手は、丸井純子さん。

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★地上波ではRKKラジオ(熊本)FM91.4 AM1197で、毎週水曜日 午後6時10分から放送中。是非生放送でもお聴きください。

RKK Kumamoto Broadcasting Co., Ltd.
スピリチュアリティ
エピソード
  • 【紅葉から学ぶ】──『葉っぱのフレディ』と永観堂のみかえり阿弥陀
    2026/11/04
    🔶紅葉の季節と命の「無常」「縁起」11月を迎え、木々の紅葉が赤く色づく季節となりました。美しく彩られた紅葉がやがて散りゆく姿は、私たちに命の儚さである「諸行無常(しょぎょうむじょう)」を教えてくれます。しかし、葉っぱはただ散って終わるわけではありません。地面に落ちて土に還り、それが養分となってまた次の新しい命が芽吹いていくという「縁起(えんぎ)」の教え、すなわち命の繋がりと循環のあり様を体現しています。浄土真宗の教えに照らせば、そうした儚くも尊い命を生きる私たちだからこそ、阿弥陀さまの慈悲の救いが常に届いているということを、紅葉の姿から深く学ぶことができます。🔶絵本『葉っぱのフレディ』が伝える死と変化アメリカの哲学者レオ・ブスカーリアが書いた絵本『葉っぱのフレディ――いのちの旅』は、まさにこの仏教のみ教えに通じる物語です。春に生まれた大きな木の葉っぱ・フレディは、物知りの親友ダニエルから「人間に木陰を作ることが葉っぱの役割であること」や「同じ場所で生まれても、一つひとつの葉っぱの条件や色は違うこと」を教わりながら成長します。やがて季節が移ろい、木枯らしと雪がやってくると、仲間たちは次々と落ちていきます。ダニエルはそれを「引っ越し」、つまり命の終わりだと教えました。「死ぬのが怖い」と怯えるフレディに対し、ダニエルは「死ぬことは怖いことじゃない。あらゆるものは常に変化している。死ぬことも変化することの一つだよ」と優しく諭します。🔶土に還り、命はまた繋がっていく初雪の日、最後まで残っていたフレディもついに枝から離れ、雪の上に落ちて命を終えていきました。しかし、フレディはただ死んで消えてしまったのではありません。生まれた場所の土へと還り、木の命の一部となって、再び春に芽吹く新しい命へと繋がっていったのです。紅葉の幻想的な美しさは、私たち自身の「命の終わり」という避けられない問題と密接に結びついています。葉っぱの命の移り変わりは、死を単なる終焉ではなく、大いなる命の繋がり(縁起)の中にある一つの変化として受け止める視座を与えてくれます。🔶紅葉の名所・永観堂の「みかえり阿弥陀」紅葉の名所といえば、熊本では秘境・五家荘(ごかのしょう)などが有名ですが、京都で特におすすめしたいのが「永観堂(えいかんどう・禅林寺)」です。永観堂の本堂には、非常に珍しい「みかえり阿弥陀(見返り阿弥陀如来)」がお祀りされています。一般的な阿弥陀さまは真正面を向いておられますが、この阿弥陀さまは首を左斜め後ろに振り返っておられます。これには伝承があり、熱心に念仏を唱えていた永観(ようかん)という僧侶に対し、阿弥陀さまが振り返って「永観、おそし(遅いよ)」とお声をかけられた姿だとされています。高千穂さんはこれを、「早くみ教えに出会いなさい」と私たちを促し、導きを待ってくださっているお慈悲(ご催促)の姿として味わっておられます。紅葉の美しさに心を打たれると同時に、み教えを伝えてくれる仏さまに出会う「紅葉狩り」は、大変尊いご縁となります。🔶今週のまとめ【1】赤く色づき散りゆく紅葉は、命の儚さ(諸行無常)とともに、土に還り新しい命へと繋がっていく命の循環(縁起)を教えてくれます。【2】絵本『葉っぱのフレディ』(作:レオ・ブスカーリア)は、葉っぱの一生を通じて、死を恐れるのではなく「変化の一つ」として受け止める命の旅を描いています。【3】フレディが土に還り次の命へ繋がっていく物語は、私たち自身の命の終わりと大いなる繋がりを見つめ直す仏教の死生観と深く通じています。【4】京都の紅葉の名所である永観堂には、斜め後ろを振り返る大変珍しい「みかえり阿弥陀」が安置されており、参拝者に深い印象を与えます。【5】みかえり阿弥陀の姿は、「早く教えに出会いなさい(永観、おそし)」と私たちを促すご催促(慈悲)の表れであり、美しい紅葉と仏法に同時に出会うご縁の大切さを教えてくれます。次回テーマは「仏教と福祉」です。どうぞお楽しみに。お話は...
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    9 分
  • 【布施の心とキャッシュレス】──ダーナの精神と現代の寺院事情
    2026/10/28
    🔶お布施の語源「ダーナ」と三つの施しお布施の語源は、古代インドのサンスクリット語「ダーナ(Dāna)」に由来し、「自分の持ち物を惜しみなく他人に与える(施し)」という意味があります。仏教におけるお布施には、大きく分けて金銭や物品を施す「財施(ざいせ)」、仏さまの教えを説く「法施(ほうせ)」、人々の恐怖や不安を取り除く「無畏施(むいせ)」の3種類があります。また、お金や物がなくても笑顔や優しい言葉などで実践できる「無財の七施(むざいのしちせ)」という教えもあります。🔶見返りを求めない「お布施」の本質お布施において最も基本的な考え方は、「見返りを求めない」ということです。「これだけ施してやった」「これだけ払ったのだから」という見返りや自己顕示欲を離れ、純粋に相手を思いやり、ともに助け合って喜ぶことがお布施の本来の姿です。つまり、お布施とは現代のビジネスにおける「サービスに対する対価(サービス料)」ではなく、あくまで仏さまや仏法に対する自発的な「お気持ち」の表現なのです。🔶寺院におけるキャッシュレス化の波と背景近年、大きなお寺や観光寺院を中心にお賽銭や拝観料の「キャッシュレス決済」が導入され始めており、今年からは宗教法人専用の決済サービスも登場しています。この背景には、外国人観光客(インバウンド)や現金を持ち歩かない若い世代のニーズへの対応に加えて、「大量の硬貨(小銭)を銀行で入金・両替する際の手数料が非常に高く、寺社側の深刻な負担になっている」という現実的な経営課題があります。人手不足の中で大勢の参拝者をさばくための苦肉の策という側面も大きいのです。🔶効率化(タイパ・コスパ)と失われゆくぬくもり一方で、お布施やお賽銭のキャッシュレス化に対しては「お賽銭箱に小銭を投じる(チャリンと鳴らす)体験や、直接手渡しする際のぬくもりが失われてしまう」といった懸念や批判の声もあります。現代はコストパフォーマンス(コスパ)やタイムパフォーマンス(タイパ)といった効率が極端に重視される時代ですが、情緒や心を根底に置かなければ、宗教儀式が単なる「デジタル決済の作業」へと変質してしまう恐れがあります。🔶時代が変わっても変わらない「ダーナ」の心お札や授与品など、金額が明確に決まっているものに対するキャッシュレス決済は合理的かもしれません。しかし、「お気持ち」であるお布施までが決済サービスに組み込まれ、プラットフォームへの手数料や税金の問題が絡んでくると、本来の「ダーナ」の精神から外れてしまう難しさがあります。時代の流れとして新しい技術や変化を受け入れることは避けられませんが、どれほど決済手段が変わろうとも、「お布施=ダーナ(惜しみない施し)」であるという本質と心を決して見失わないことが何よりも大切です。🔶今週のまとめ【1】「お布施」はサンスクリット語の「ダーナ(惜しみない施し)」に由来し、財施・法施・無畏施・無財の七施など様々な実践方法があります。【2】お布施の根本は「見返りを求めない」ことであり、サービスに対する対価(料金)ではなく、仏法に対する自発的な「お気持ち」です。【3】近年、観光寺院などでキャッシュレス化が進む背景には、参拝者のニーズの変化や、硬貨取扱手数料の高騰による寺社側の経営圧迫があります。【4】効率化が進む一方で、「お賽銭箱に入れる体験や受け渡しのぬくもりが失われる」といった情緒面での懸念も指摘されています。【5】時代と共に決済手段が変化しても、お布施が単なるビジネスの支払いにならないよう、「ダーナ」の精神と心を忘れないことが大切です。次回テーマは「紅葉から学ぶ」です。どうぞお楽しみに。お話は、熊本市中央区京町(きょうまち)にある仏嚴寺(ぶつごんじ)の高千穂光正(たかちほ こうしょう)さん。お相手は丸井純子(まるい じゅんこ)でした。
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    9 分
  • 【浄土真宗と菊(聴く・聞く)】──菊の花に学ぶ「聴聞」と阿弥陀さまの救い
    2026/10/21
    🔶日本人に馴染み深い「菊」と仏花の歴史毎年秋(10月中旬〜11月頃)になると、西本願寺をはじめ各地のお寺で「献菊展(けんぎくてん)」が行われます。菊はパスポートや皇室の紋章(菊花紋章)にも用いられるなど、日本人にとって非常に格式高く馴染み深い花です。一方で、菊といえば「お葬式やお墓にお供えする仏花(ぶっか)」というイメージを持つ方も多いでしょう。しかし、お葬式などで菊が仏花として定着したのは、実は戦後(昭和時代)になってからのことです。昔の葬列では、その季節の野の花など、自然の中にある花が使われていました。戦後になり、温室栽培などの技術発展によって一年中安定して菊が栽培できるようになり、日持ちの良さも相まって仏花として広く用いられるようになったという歴史があります。🔶花の終わりを表す「菊が舞う」という風流な表現日本には花の終わり(散り方)を表す美しい言葉の文化があります。例えば「桜は散る」「梅はこぼれる」「椿は落ちる」などと表現されますが、菊の場合は「菊が舞う」と表現されます。菊は枯れても花びらがバラバラに散って落ちることがなく、花全体が垂れるように枯れていきます。その姿が、まるで風に吹かれて舞い踊っているように見えることから「舞う」と表現されました。こうした風流な表現からも、日本人が菊という花に特別な感情を寄せてきたことがわかります。🔶「聴」と「聞」の違いと浄土真宗の「聴聞」浄土真宗において、お寺で阿弥陀さまの教えを聞くことを「聴聞(ちょうもん)」といいますが、この「聴」と「聞」の二つの漢字には明確な違いがあります。「聴(耳へん)」は、自分から意識して自発的に聞こうとすること(例:ラジオを聴く)を指します。一方、「聞(門がまえ)」は、聞こうとしなくても向こうから自然に耳に入ってくること(例:救急車のサイレンが聞こえる)を指します。浄土真宗では、この「聴聞」という言葉について、「『聴』は仏さまにお許しをいただいて聞かせていただくこと、『聞』は仏さまの教えを疑いなく信じて聞き入れること」と深く味わいます。最初は自分の意志で教えを聞きに行き、やがて阿弥陀さまの呼び声(教え)が私に至り届き、それをそのまま信じて受け入れる身になるという、仏法との尊い出会いが表されています。🔶親鸞聖人が説く「聞」──仏願の生起本末を聞く浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』において、「何を聞くのか」という問いに対し、次のように示されています。> 「聞(もん)といふは、衆生(しゅじょう)、仏願の生起本末(しょうきほんまつ)を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」「生起(しょうき)」とは、なぜ阿弥陀仏が私を救おうと本願を起こされたのかという理由です。それは、私が自己中心的な煩悩にまみれた存在であるからです。「本末(ほんまつ)」とは、そんな迷いの命である私を、必ず悟りの仏へと成らせるという阿弥陀さまの確かな働きのことです。つまり、私のありのままの醜い姿(生起)と、私を絶対に救い取るという阿弥陀さまの広大な慈悲(本末)を、私の都合や計らいを交えずにそのままお聞かせいただく(疑心あることなし)ことこそが、浄土真宗における「聞(聴聞)」の本質なのです。🔶色眼鏡を外して「ありのまま」をお聞かせいただく菊の花の本質は同じであるにもかかわらず、ある人は「格式高い尊い花」と愛で、ある人は「お葬式の縁起の悪い花」と避けます。それは、私たちが物事を自分の都合や価値観という「色眼鏡」を通してしか見られないからです。聴聞とは、そうした自己中心的な見方しかできない煩悩具足(ぼんのうぐそく)の自分自身のありのままの姿に気づかされ、そんな私こそが阿弥陀さまの救いの「目当て」であるとお聞かせいただく尊い時間です。菊の花を仏前にお供えするたびに、自分の色眼鏡に気づき、教えを聞き受ける「聴聞」の大切さを味わうご縁としたいものです。🔶今週のまとめ【1】西本願寺の「献菊展」や皇室の紋章など、日本人に馴染み...
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