流れのほとりに

著者: キリスト教たんぽぽ教会
  • サマリー

  • キリスト教たんぽぽ教会の礼拝で語られたメッセージ音源です。
    キリスト教たんぽぽ教会
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あらすじ・解説

キリスト教たんぽぽ教会の礼拝で語られたメッセージ音源です。
キリスト教たんぽぽ教会
エピソード
  • 大胆な祈りへ~霊的祝福に包まれて~(エペソ人への手紙1章1節~3節)
    2025/04/27

    序)「もはや罪人ではない?!」

    ・聖書がいう「罪人」とは、神様との関係が切れている人のこと(対概念である「義人」は神様と繋がった人)。倫理的問題はその結果現象。

    ・救われてからも「生まれながらの罪の性質」を感じるし、罪を犯すが、それは「罪人」だからではなく「からだ」に沁みついている癖による。

    ・内なる人が強くされるなら、からだを治めることができる。これが「自分に死に、キリストに生きる」よみがえりの経験である。

    1)「聖なる者」という自己認識

    ・「聖徒」=「聖なる者たち」≠「罪赦された罪人」←聖書にはない表現→教会の歴史の中で「聖人」という特別なカテゴリーが造られてしまったことは問題。聖書はクリスチャンを皆「聖なる者たち」と呼んでいる。

    ・「キリストにある忠実な」というのは、キリスト・イエスによって信頼に値する者というニュアンスがあり、キリスト・イエスに対する信頼によって「聖なる者」とされたことを語っている。

    2)エペソ人への手紙の特殊性

    ・この手紙はエペソ教会限定ではない。「エペソの」はオリジナルの手紙にはなく、この部分が空白だった可能性が濃厚。紀元 1 世紀のあらゆる町の名前が入り得る状態で書かれた手紙と考えられる。

    ・「エペソ人への手紙」は、特定の教会の特定の問題を解決するためのものではなく、教会一般に関することを教えることを目的にしている。

    ・だから「キリスト・イエスにある忠実な府中の聖徒たちへ」と読み替えて差し支えない。

    3)大胆な祈りの根拠~天上に招かれている私たち~

    ・「天上にあって」はエペソ人への手紙のキイワード。1 章 20節ではキリストが着かれた「神の右の座(父なる神の権威をすべて行使できる完全な立場)」を指しており、2 章 6 節ではそこに私たちが(霊的に)「ともに座っている」と語られている!

    ・私たちは祈りにおいて「イエス様のお名前によって祈ります」という類の言葉を言うが、これはイエス様に仲介を願うものではない。イエスの名によって祈るとは、イエス様の代理人として祈るということ。

    ・そのような立場に招かれたのは「神のみこころ」があるから。1 節の「神のみこころによる」はパウロの選びと共に、聖なる者の救いに目的があることを示している。それは天上の祝福を地にもたらすこと。

    結)一つのはしごとされた私たち~天上の祝福をこの地に変換する~

    ・福音讃美歌 234 の 3 節は誤解を招きやすい。「心は天の幸に憩う」なら地上にある「からだ」に、その幸いが伝わり、世界に現わされる。

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  • 世界を変えた朝、もう新しい私(コリント人への手紙第二5章15節~17節)
    2025/04/20

    序)イースターの衝撃は「わくわく」と「もどかしさ」をもたらす

    ・イースターの日から、世界はすっかり変わることになった。

    ・イースターの出来事を「未来の約束」としてだけ受け止めてしまうと、その衝撃的な力は失われてしまう。パウロはこの人生で「キリストの復活の力を知る」ことができると言っている。

    1)永遠なるものがこの世界に繋げられた!

    ・「人は生まれて、ある程度生きて、死ぬ」という世界観=人生の地図。

    ・死んだ先のことは謎で、色々な宗教が生まれた。しかし、死んでしまったら、この世界に関わることはできなくなるという点で共通している。

    ・よみがえりとは、幽霊やゾンビのような劣った状態で世界を脅かすのではなく、人間の潜在能力が完全に開花した形で、この世界に戻ってくること。イースターの日に、これが現実のものであることが証しされた。

    ・このことを知り、受け入れるなら、生き方が革命的に変わるはず。

    ・イエス様を信じても、よみがえりの力を自動的に体験することにはならない。信じていることを、生き方に繋げる必要がある。

    2)3種類の「ために」が鍵

    ・イエス様を信じると「自分のために生きる」ことから「キリストのために生きる」人生に方向転換するとよく言われるが、単純ではない。

    ・Ⅱコリント 5:15 では「~ため」が 5 回使われているが、ギリシア語では 3 種類の表現で区別されている。

    ❶「利益」を表す「ために」(英語で言えば for you の for)

    …「キリストはすべての人のために死なれました」

    「自分のために死んでよみがえった」

    ➋「目的」を表す「ため」…「生きるためです」

    ❸ いろいろなニュアンスの混じった「ため」…「自分のため」→「自分によって」、「死んでよみがえった方のために」「死んでよみがえった方によって」と訳することができる。生きる力の源が問題になる。

    ・今やっていることが「自分のため」か「イエス様のため」かという塗分ける考え方とは違う。キリストのうちに留まることが何より重要。

    →新しく生み出される生き方「ゆっくり急げ(フェステーナ・レンテ)」

    結)見た目に惑わされず、御言葉の宣言に従おう

    ・生き方の変化をもたらす鍵を握るのは、自己認識の変化である。

    ・「肉にしたがって」≒「見た目で」イエス様を信じても、肉のからだに関する原理は変わらない。しかし、すべて新しくなっていると聖書は言う。そちらに基づいて生きるか、自分の見た目に従うのか。

    ・「すべてが新しい」ならば、新しいアクションを起こそう!

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    26 分
  • すべてののろいを終わらせるために(マルコの福音書15章29節~32節)
    2025/04/13

    序)「通りすがりの人たち」の実相

    ・朝 9 時から 12 時まで、マルコは嘲られるイエス様を描く。

    ・ゴルゴタはエルサレムに出入りするメインストリートから外れており「通りすがりの人たち」はわざわざ出向いた可能性が高い。

    ・彼らの発言からイエス様の宮きよめに反発した商売人の関係者だろう。

    1)現場にいなかった「祭司長たち」

    ・「同じように」というのは「通りすがりの人たち」と同調しているという意味で「一緒になって」という意味ではない。

    ・祭司長たちの言動は、3 人称でありイエス様に直接向けられる 2 人称の表現になっていない。3 人称命令形は、祈りで使われる文法!

    ・「代わる代わる」→「互いに」イエスを嘲り合っていた。

    ・この日は過越しの祭りであるから、宗教的汚れを受ける可能性の高い死刑執行の場に、祭司長たちが出向くことはあり得ない。

    2)十字架の場面の情報源

    ・「通りすがりの人たち」の声を聞いてマルコに証言したのは誰か。イエスの大人の弟子たちは逃亡しており、女性たちは遠巻きに眺めていた。

    →最も可能性が高いのは、十字架刑を執行したローマの百人隊長(15:39)

    ・現場にいなかった「祭司長たち」の秘密裏の会話を証言できたのは誰か。それはそこに一緒にいた「誰か」で、後に悔い改めて、イエス様を信じるようになった人である。(使徒の働き 6:7 を参照)

    ・この記事は、イエス様を嘲った者による罪の告白を基に語られている。

    3)浮かび上がる十字架の意味

    ・「他人は救った」と祭司長たちは認めている。これは病の癒しや悪霊追放のことを指すが、祭司長たちはこれを悪霊のかしらの力に帰した。そういう人物ならば、神に呪われて死ぬはずであり、十字架はその証明だった。本物のメシアなら十字架から降りる奇跡を起こせるだろう。しかし「自分は救えない」=偽メシアであることは決定的。

    ・けれども、イエス様は十字架を降りる以上の救いのみわざである「よみがえり」を果たされた。こうなると、イエス様を嘲った人々が呪い殺されてしかるべき、となる。しかし福音は彼らに救いを提示した。

    結)罪の縄目から解放する救い主

    ・侮辱した人々は、侮辱せずには生きていけない人たちだったと考えられる。誰かの被害者が、誰かの加害者になるのが、罪ののろいの世界。

    ・私たちに必要なのは、こののろいの連鎖の世界から抜け出すことであり、イエス様の十字架は、その道を開く。すべてののろいを受け止める十字架の前に「自分が嘲る者である」と告白する時、私たちは救われる。

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