『流れのほとりに』のカバーアート

流れのほとりに

流れのほとりに

著者: キリスト教たんぽぽ教会
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キリスト教たんぽぽ教会の礼拝で語られたメッセージ音源です。キリスト教たんぽぽ教会 キリスト教 スピリチュアリティ 聖職・福音主義
エピソード
  • 天を忘れて生きるにあらず(ピリピ人への手紙3章20節~21節)
    2026/10/25

    序)「心を高く上げる」

    ・キリスト教葬儀の最後の飾花についての説明「元は一粒の種でしかなかったものが、美しい花となって開くのを見て、私たちは、この地上での命が、永遠のいのちへの種であることを覚え、心を高く上げるのです」

    ・「心が下がる(落ち込む)」ことは誰にでも起こる。下を向くばかりでは生きていくことが難しい。

    1)「心を上げる」ためのスペース(時間)

    ・サッカーでも、ボールを受け取ったプレイヤーの「顔が上がる」かどうかが勝敗を決すると言われる。プレッシャーがかかると足元ばかりに目が行き、視野が狭くなる。上手な選手(あるいはチーム)は、スペースのある所でボールを受けるので、顔が上がる。

    ・私たちの人生において「心を上げる」ためのスペースは、礼拝である。

    ・礼拝において、人生の大局(全体像)を思い起こすと「心が上がる」。

    2)「召天者」―その意味

    ・「キリスト・イエスによって神が上(松竹梅の「松」のようなイメージ)に召してくださるという、その賞をいただく(ピリピ3:14)」という聖書の言葉に由来する。「松のからだ」=「からだのよみがえり」

    ・「召天者」とは表彰式を待つばかりになっている人々のこと。未来のその日まで、先に亡くなった方々は眠っている。

    ・したがって、お墓というのは表彰式に立つための「待ち合わせ場所」である。生き焦ることをせず、「自分の試合」をやり切ることが大切。

    ・私たち人間は、始まりこそ有限だが、永遠へと招かれている。

    ・心を上げて生きることは、誰かを幸せにするためのゆとりをもつこと。

    3)「私たちの国籍は天にある」ことを思い起こす

    ・「国籍」という言葉は古代と現代で意味がまるで変わってしまった。今日の「国籍」は戻るべきところだが、古代の「国籍」は「出資元(バックアップスポンサー)」という意味をもっている。

    ・「国籍が天にある」とは、天からの代表として、今、この地上を生きるということを意味している。

    ・「からだのよみがえり」もこの天の力によって起こる。「卑しいからだ」とは「低級の(梅)のからだ」のことで、老いや病、そして死が避けられない。

    ・「天」は、境目がなく、ひとつであり、誰でもアクセスできる。天におられる神様が、すべての人の父として目を留めていてくださる。

    結)「天を忘れて生きるにあらず」

    ・自分の国籍を忘れて余裕を失う私たちは、何度でも心を上げられる。

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    30 分
  • エリコに付き合うイエス(マルコの福音書10章46節)
    2026/10/18

    序)人生の旅を福音書で読む

    ・「エリコに着いた」というのは「エルサレムに上る(10:32)」という十字架にかかり、よみがえる旅の途中である。十字架は神を愛し人を愛することの極致であり、十字架の形をした人生が私たちの目指すもの。

    ・自分の人生をイエス様の旅と重ねながら読むのが福音書の読み方。

    1)「エリコに着いた」のはよかったのか?

    ・「さて」と訳されているが、接続詞カイ(and)なので「そうして」と訳すなら、直前の出来事と関連づけられる。

    ・直前に起きていたのは弟子たちの権力闘争。「皆のしもべになりなさい」とのイエス様の教えがどう受け取られたかを書かずに「そうして一行はエリコに着いた」と記される。

    ・「皆のしもべになる」のがエルサレムなら「一番偉くなろう」とするのがエリコの町に象徴される。

    ・エリコはこの当時、武力によって理想の実現を目指す輩の巣窟だった。

    ・ここで主語は「一行は」となっておりイエス様が先頭に立つエルサレムへの道から逸れている。イエス様が主語になるのは「出ていく」時。

    2)エリコに付き合ってくださるイエス様

    ・エリコといえば、ヨシュア記の冒頭で滅ぼされる町だが、人間ヨシュアの要らない工作により、要らない戦争の始まった場所である。

    ・ヨシュアはこの町の再建が起こらないように宣言したが、この時代ヘロデ王によって再建されており、第一次ユダヤ戦争の前線基地になる。

    ・このエリコに「着いてしまう」弟子たちの姿を思い巡らす時、自分の姿と重なってくる。愚かな椅子取りゲームは誰にも心当たりがあるのではないか。

    ・ここに込められた福音は、この愚かな弟子の「一行」にイエス様も含まれてくださること。エリコに入れば、イエス様は暴力的メシアとして担ぎ上げられる(誤解される)リスクがあったが、弟子たちを引き出すまで見放さない。

    3)「共に生きる」という福音

    ・私たちは自分の基準で(それが聖書の基準と一致していたとしても)、良くない目標、目的地を掲げる人たちとどう関わるのか。一線を引いて、汚れから身を守るのか。イエス様はエリコに付き合うが、長く留まる(同化)こともしなかった。

    ・十字架に至る道に「エリコ」が含まれることがあり得るということ。エリコは目指すべきものではない。しかし、共に生きる仲間が迷い込む時イエス様とともに、エリコに付き合うことも「道」である。

    結)離れていると思っていても、共におられるイエス

    ・イエス様は「悔い改め、ちゃんとするまでは遠い方」ではない。

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