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流れのほとりに

流れのほとりに

著者: キリスト教たんぽぽ教会
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このコンテンツについて

キリスト教たんぽぽ教会の礼拝で語られたメッセージ音源です。キリスト教たんぽぽ教会 キリスト教 スピリチュアリティ 聖職・福音主義
エピソード
  • 一人ひとりへの愛(ヨハネの福音書21章20節~25節)
    2025/11/16

    序)ヨハネの福音書の執筆事情

    ・「これらのことを書いた者は、その弟子」…「書く」といっても口述筆記である。実際に書いたのは「私たちは…知っている」という筆記者。

    ・「その弟子」はヨハネであるが 12 弟子の一人「ゼベダイの子ヨハネ」ではなく「愛弟子ヨハネ」である。

    1)イエスが「愛された」弟子とは?(24~25 節)

    ・福音書記者ヨハネは、イエス様とは世代の違う(イエス様から見ると子ども世代に当たる)人物だった。

    ・過越しの食事において主催者の「胸元によりかかる」のはその中で最年少の子どもの特権だった。

    ・愛弟子ヨハネはイエス様一行といつも行動を共にしていた。彼は年少で大人の数に数えられなかったので、十字架刑に立ち会う女性たちの(母マリア等)間にまぎれることができた。

    ・年齢的な若さから、十二使徒に選ばれなかったが、初めからイエス様の公生涯を目撃した生き証人としてこの福音書を書いた。→イエス様は、大人も子どもも交じり合ったグループと生涯を共にした。

    2)ペテロの弱さ、私たちの代表

    ・「主よ、この人はどうなのですか?」と聞きたくなったペテロは、他人が気になる私たちの代表である。他人との比較で自分の人生を評価したい。

    ・イエス様は、そういう評価に答えられない。「あなたは、わたしに従いなさい(従い続けなさい)」と繰り返される。→「今日、私はイエス様に従う」という一事に励むことが求められている。

    3)誤解された言動と私たち

    ・「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても」という発言は、ヨハネの寿命より再臨が早いという噂を生んでいたので、ここで訂正がされる。

    ・神様の計画の大枠は聖書に記されている。一人ひとりへの愛のある導き、計画は、一歩一歩明らかにされていく。

    ・一人ひとりへの個別の役割がある。比べても仕方がない。どんな人も神の栄光を現すことができる者として贖われていく。

    結)愛されている弟子として

    ・イエス様の胸元によりかかり、イエス様の声を聞いて生きていこう。

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    29 分
  • わたしの羊を飼いなさい(ヨハネの福音書21章15節~19節)
    2025/11/09

    序)「君たちはどう生きるか」

    ・太平洋戦争中の 1937 年に吉野源三郎著『君たちはどう生きるか』が出版され、1982 年に岩波文庫として復刊されたものを私は学生時代に読んで感銘を受けた。2017 年には漫画と原文をミックスした『漫画 君たちはどう生きるか』が出ると、200 万部を超えるベストセラーとなった。2023 年に公開された宮崎駿監督『君たちはどう生きるか』は第 96 回アカデミー賞長編アニメ賞ほか多数を受賞した。

    1)コペル君の物語

    ・主人公はおじさんからコペル君とニックネームをつけられた本田潤一君中学2年生。銀座の人だかりを見て人間が分子みたいだと言った潤一君を、地動説をとなえたコペルニクス(1473-1543)にちなんで、おじさんが「コペル君」と呼ぶようになる。上級生からにらまれた友だちと行動をともにしようと約束しながら、自分だけ逃げてしまったコペル君は、友だちを裏切ってしまったことをくやんで、ひきこもる。しかし、勇気をもっておわびの手紙を書き、友だちから受け入れられて、コペル君が立ち直る姿を描き、「君たちはどう生きるか」と最後に問うている作品。

    2)ペテロはイエスさまを裏切った

    ・イエス様からペテロ(岩男)とニックネームをつけられて愛されたシモンは、弟子たちの筆頭格だったし、迫害の時が来ても「あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」(ルカ 22 章 33 節)と言い切った男だった。しかし、イエス様が捕らえられて大祭司の家で審問されている夜、中庭で炭火を起こして暖まっている人たちの中に入っていたペテロは、そこで「あなたもあの人の弟子ではないのか」と三度問われて、三度とも「弟子ではない」と否定した。

    ・鶏が鳴いた時、イエス様が振りむいてペテロを見つめられたとルカは記している(ルカ 22 章 61 節)。ペテロは「外に出て行って、激しく泣いた」。

    3)イエス様はペテロをどう扱われたか?

    ・イエス様が死んで復活されたあと、ティベリア湖畔にいる弟子たちにご自分を現わされた時の次第をヨハネは記している。ペテロは「私は漁に行く」と言い、他の者も従ったが、何も捕れなかった。夜明けにイエス様は岸辺に立たれて、「舟の右側に網を打ちなさい」と命じられ、その通りにすると網を引き上げられないほどの大漁になった。

    ・岸辺で朝食を用意されていたイエス様は食事の後にペテロに問われた。「あなたはわたしを愛するか?」苦し紛れに「はい」と答えるペテ私たちは主の前にどう生きるか?はペテロは心を痛めて「あなたを愛しています」と告白する。イエス様は「わたしの羊を飼いなさい」と繰り返された。

    ・傷心のペテロをイエス様は責められなかった。そうではなくて、「わたしの羊を飼いなさい」とペテロを前に向けて押し出された。ペテロに心の傷跡は残るが、イエス様の大きな愛に包まれて立ち直り、弟子として死に至るまで強く歩み抜いた。

    結)私たちは主の前にどう生きるか?

    ・後年ペテロは「私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい」(Ⅱペテロ 3章 15節)と手紙に書く人になった。

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    36 分
  • さあ、福音しよう!(ルカの福音書4章16節~21節)
    2025/11/02

    序)「福音」とは待ち望んでいた良い報せ

    ・「福音(ユーアンゲリオン:良い知らせ)」はただの情報ではない。福音が届いたところでは世界が変わり、宴や祭りが開かれることになる。それゆえ「福音」には動詞形「福音する」がある。

    1)貧しい人に「福音する」のが油注がれた者の使命

    ・ルカ 4 章 18 節は、油注がれた者(メシア)であるイエス様の使命を語る。

    ・ルカはこのユーアンゲリゾーを多用し、イエス様の働きと使徒たちの働きを同じ言葉で語る。(参考:使徒 5:42)

    ・聖霊という「油注がれた者」である私たちも、同じ使命に立っている。

    ・「貧しい人(プトーコイ)」は経済的困窮者を意味するが、当時の文脈ではそれ以上の内容をもつ。捕囚され、奴隷になっている者という意味。

    ⇒バビロン捕囚から物理的には帰還していたも、未だに帝国の奴隷であり、神に赦されていないと人々は感じながら生きていた。だから福音は「捕囚の終わり」としての解放を告げるものだった。

    2)「貧しい人に福音する」の中身

    ・「捕らわれ人には解放を」…社会全体が刑務所状態だったユダヤ社会において「解放」=「赦し」とは、帝国の奴隷でも罪の奴隷でもない生き方へと人々を招く。罪の因果にし配される世界は断ち切られた!

    ・「目の見えない人」…文字通りの意味ももち、イエス様の働きは実際に多くの目の見えない人を癒した。そこには霊的な盲目状態からの癒しの象徴がこめられている。「福音する」ことによって神様がわかるようになる。

    ・「虐げられている人を自由の身とし」…「虐待された人」は世界の認識が歪んでしまう。安心安全を感じられないし、存在価値を否定されているので、どうにかして存在価値を見出さなくてはいけないともがく。けれども、そこで用いる方法は、決して満足できない方法ばかり。「福音する」とはそういう人を「自由の中に」一緒に連れて行くこと。

    ・「主の恵みの年」とは「ヨベルの年」という祝いの時の別称。ヨベルは、一切の負債が帳消しになり、失敗のせいで失われたものが自分の手に返ってくる時。ヨベルの特別な犠牲の血により、この解放が 50 年に一度起こるのが旧約聖書の定め。

    ⇒イエス様の十字架の血が、本当のヨベルをもたらした。永遠の解放が私たちに与えられている。私たちの人生、いのちはもはや誰にも奪われない。

    ・ヨベルの祝いに続いて「仮庵の祭り」が続く。それは神の国の完成を意味する。今、私たちはヨベルから仮庵の祭りの間を生きている。

    結)神の民こそ「福音する/される」必要がある

    ・私たちが福音を喜ぶとき、その喜びの輪が地域へと広がる。

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    31 分
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