『流れのほとりに』のカバーアート

流れのほとりに

流れのほとりに

著者: キリスト教たんぽぽ教会
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このコンテンツについて

キリスト教たんぽぽ教会の礼拝で語られたメッセージ音源です。キリスト教たんぽぽ教会 キリスト教 スピリチュアリティ 聖職・福音主義
エピソード
  • 神の国を受け継ぐ旅(マルコの福音書10章17節~22節)
    2025/09/21

    序)「天国止まりの福音」ではわからないこと

    ・「何をしたら」という問いかけは正しい問いなのか。

    ・「持っている物をすべて売り払って」というのは普遍的か。

    1)この男性はなぜ一人で走って来たのか?

    ・「永遠のいのちを受け継ぐには?」=「神の国を受け継ぐには?」であり、「天国に行くにはどうしたらいいか」ではない。

    ・「受け継ぐ」という言葉は土地所有に関する堅い言葉。(マタイ 5:5 参照)

    ・当時の成人男性は走らないから、よほどの緊急事態である。一定の資産家なのに同行者なしで、一人で来るということにも違和感がある。

    →彼が所有していた土地(畑)に何かトラブルが起こり、土地を手放さなくてはいけない危機的状況が迫っていたと考えると説明できる。

    ・約束の地を所有し守っていくことは、信仰的な重要性をもっており、神の国の到来に貢献することだと考えられた。

    →この男性の求めは「御国の到来にどうしたら用いられるか」であり、目下抱えているピンチを乗り切る方法を求めてイエスのもとに来たのである。

    2)耳を疑うイエス様のことば

    ・約束の地で「十のことば」を実行するなら、神の国は現実になると旧約聖書は語る。それゆえ男性の問いとイエスの答えは当たり前のやりとり。

    ・「守ってきました」との自負が問題視されることもあるが、イエス様は彼を「いつくしんで(アガペー)」見ている。

    ・彼が守ろうと必死になっているものを手放すようにイエス様は言われた。

    ・「天に宝を持つ」とは「御国の到来に貢献できる」という意味。

    →イエス様は「土地を守ることなしに、神の国に貢献することはできない」という信念を手放しても、御国に貢献できることを教えておられる。

    ・土地を守ることで、貧しい人たちを長期的に養える。土地を売ったら短期的に養えても続かない。しかしもっと長期に考えれば神様は土地を返してくださるお方である。土地は神のものである。

    ・「わたしについて来なさい」とは弟子としての正式な招き。手放した後の生活をイエス様が責任をもつと語っている。

    3)神の国を受け継ぐ旅

    ・17 節「道に出ていかれると」は「旅に出ようとされると」と訳せる。この動詞の主語はイエス様だけ。十字架において、すべてを父の手に委ねて、いのちを投げ出し、神の国を受け継ぐ旅へとイエス様は踏み出す。そこにこの男性も招かれた。必要なのは「良い神」への信頼のみ。

    結)「こうでなければ」を手放せば

    ・信仰人生は「旅」である。危機をチャンスに、大胆に、柔軟に従おう。

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    46 分
  • 頑なさを諭されて(マルコの福音書10章1節~16節)
    2025/09/14

    序)10 章までのマルコの福音書の流れ

    ・8 章 31 節から「受難予告」が始まり 10 章 45 節で結ばれるサンドイッチ構造であり、中心主題は「すべてを立て直す」ことで、そのために逆三角形の世界を目指すことが教えられ、受難が必須だと語られている。

    1)出来事の背景にあること~「試そうとして」の意味~

    ・「ユダヤ地方とヨルダンの川向こう」とは、バプテスマのヨハネの活動場所で、ヘロデ・アンティパスが治めている領域。このヘロデは妻へロディアを離婚させて結婚していた。この経緯(6 章 17 節参照)が背景。

    ・この場所でパリサイ人たちが「離婚」の是非をめぐって論戦を仕掛ける。どちらを選んでも追い詰められるがイエスは知恵深く対応する。この物語の結論は 12 節ではなく 16 節(9 章のパターンと同じ)であることに注意。

    2)イエスの教えの主題

    ・この箇所は「離婚について」ではなく「姦淫について」のイエスの教えである。パリサイ人たちの口車でミスリードされないように!

    ・9 節「神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」は離婚の禁止ではなく、婚姻関係に第三者が入り込むことの禁止。「引き離す」は包括的な禁止命令ではなく、今すぐ中断せよという文法。

    ・議論の争点になる申命記 24 章は離婚を前提にしている。離婚は悲しいことであり、避ける努力をすべきだが起こり得ることである。

    ・「あなたがたの心が頑な」とは離婚当事者よりもパリサイ人たちを責めている。彼らの思考法が「頑なさ」の現れである。

    ・イエス様の御言葉引用は、創世記 1:27 と 2:24 だが大事な部分を敢えて引用していない。「男と女は神のかたち(=神の国のしるし)」であり、結婚・家庭生活において御国は特に現わされるもの。それゆえ姦淫は罪。

    3)頑なさを諭されて

    ・この議論の中に、子どもたちが連れて来られるが、弟子たちによって排除される。知識を増し加えた大人が、知識の乏しい子どもをイエス様から遠ざけ、△を志向する世界にイエス様は怒りを発する。

    ・学びによって身に着ける力は「身勝手な都合」を実現する手段ではなく、次世代を祝福する御国のために用いるよう主イエスは教えられる。

    ・「子どものように」とは頑なな大人との相対的対比で語られている。

    結)家族関係が△か▽か

    ・すべての家族に傷がある。互いの尊厳を守りながら、傷を分かち合い、祈り合い、癒されていくことが子どもたち(未来)のために必要である。

    ・主イエスが引用した創世記 2:24 はエペソ 5:31~32 でキリストと教会に適用される。ここに希望がある。子どものように主イエスに近づこう。

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    45 分
  • たんぽぽの樹を育もう(ヨハネの黙示録22章1節~5節)
    2025/09/07

    序)ヨハネの黙示録にある「28」

    ・イエス様を象徴する「子羊」が 28 回使われる。

    ・28=4(世界)×7(完全)で全世界を満たすという象徴数。

    1)22 章の美しい光景の意味

    ・「まもなく彼方の流れの傍で」(教会福音讃美歌 336「川辺を歩めば」)で歌われるが、天国(あの世)の描写ではない。

    ・「もはや、のろわれるものが何もない」とは、以前には「のろわれるものがあった」ことを示唆する。この光景は地上の贖われた姿である。

    ・「いのちの水の川」は「神と子羊の御座(単数)」から出るゆえに聖霊の象徴である。一つの御座は神の国の中心を象徴し、ここに神、子羊、いのちの水(聖霊)という三者が関与する、三位一体が表現されている。

    2)いのちの水で生かされる礼拝

    ・黙示録は、礼拝の濁り(偶像礼拝、教えの混乱)を問題にしている。いのちを奪う礼拝ではなく、いのちを与える礼拝に回復することが、世界の回復につながる。謙虚に礼拝の回復を続けていくことが重要。

    ・現代の教会に入り込んでいるのは「天国止まりの福音」。これが先鋭化するとグノーシス主義の現代版になる。これは異教との混交やカルトの温床になるし、教会の存在意義も曖昧になり、聖書理解を歪める。

    ・いのちの水は「都の大通り」を流れるとは、聖霊の恵みが公に開かれたものであることを示す。神との交わりをすべての人に開く努力が必要。

    3)いのちの水からいのちの樹へ

    ・「いのちの樹」は聖霊によって生かされる人間の象徴である。詩篇 92:12

    ・神様から離れた人間は「草」に象徴される(イザヤ 40:6-8)。聖霊によって生かされるなら他者に永遠のいのちを与える(創世記 3:22)ことができるようになる。葉による癒しは、正気に戻すことである。

    ・黙示録の主題は教会共同体(22:16)であり、聖書は人間を個人と同時に共同体として「ひとり」と数えるゆえに、この樹は教会の象徴。

    ・この幻の下敷きはエゼキエル 47:12 で果樹は多様であることがわかる。

    結)たんぽぽの樹を育もう

    ・3 節後半から動詞は未来形になり、神の国の完成の約束が描かれる。逆に言うと 1 節~3 節は現在形であり、私たちが関われる部分である。

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    37 分
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