『天理教の時間「家族円満」』のカバーアート

天理教の時間「家族円満」

天理教の時間「家族円満」

著者: TENRIKYO
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心のつかい方を見直してみませんか?天理教の教えに基づいた"家族円満"のヒントをお届けします。 スピリチュアリティ
エピソード
  • 大丈夫=マイペンライ
    2026/07/03
    大丈夫=マイペンライ タイ在住  野口 信也 タイ人のようぼくで、日本語で「大丈夫」という意味のタイ語「マイペンライ」が口癖のTさんという方がおられます。 この方は、若い頃友人に誘われ、日本へ行くことになりました。しかし、いざ出発となった時、その友人は、「もしかすると騙されているかも知れないので、自分は日本へ行くのをやめる」と言い出したそうです。しかし、Tさんは「まあ、だいじょうぶ、何とかなる」と持ち前の性分を発揮し、誘われるがまま日本へやって来ました。 そこは岡山にある天理教の教会で、Tさんはその後、修養科を修了し、その教会でお世話になりながら日本語学校へ通いました。彼は勉強が得意ではなく、教会でのひのきしんも気の向くままという程度でしたが、その教会の会長さんや前会長さんは、そんな彼の気ままな生活を責めることなく、温かく見守り、大切にしてくれたとのこと。その時の恩返しをしたいと、Tさんはタイで天理教を広めることを心に誓いました。 Tさんは26年前にタイへ帰国後、自宅に立派な神床を構えて神様をお祀りし、日を決めて月次祭をつとめ始めました。友人や知人、近所の方、散歩中に知り合った方、子供のクラブの関係者、会社の方など誰にでも声を掛けるので、月次祭には初参拝の方が多く来られます。 また、祭典に間に合わなかった人にも、「大丈夫、今おつとめ終わったから、飲みに来てね」と電話をかけ、奥さんのおいしい手料理を食べながら、みんなで楽しくビールを飲みます。とにかくいつも明るく、誰にでも気さくに優しく声をかけ、人を責めることをしない彼の元には、どんどん人が集まります。 教祖誕生祭がつとめられる4月中旬、タイではタイ正月の長期休暇があります。Tさんはこの時期を利用して団参を組み、おぢばがえりを続けています。最初は少人数でしたが、現在は毎年30名で帰参。これは教会で受け入れることの出来るギリギリの人数で、来年、再来年とも予約でいっぱいだそうです。 帰参する人の中には、「天理教はどんな教えですか?」と尋ねる人もいますが、Tさんは親神様、教祖について少しだけお話をして、「まあ、大丈夫、行ったらわかりますから」といった調子です。教えに興味がある人も、ない人も、「大丈夫」と気軽にどんどん誘います。そして、誰もがおぢばと教会での温かい受け入れに心を打たれ、「また帰りたい」と口にします。 ある年、私が別席のお誓いの通訳をしていた時のことです。そこに、どこかで見覚えのあるタイの方が来ました。よく見ると、なんとタイの税務署の方々でした。タイの公務員の中には少し高飛車な方もいて、私も留学の時の手続きで苦労させられたので、受付の方々の顔を覚えていました。 私は自分の目を疑うほどびっくりして、Tさんにどういう経緯で彼らがおぢばがえりをすることになったのか聞いてみました。 毎年、帰参前の3月末頃から、Tさんが勤める日系の会社でも税申告の手続きが必要なのですが、それがなかなかスムーズに進まないので、Tさんはいつも「早くしてくれないと、日本に行けなくなります」と訴えるのだそうです。すると税務署の方に、「どうして毎年日本に行く必要があるんだ」と聞かれたので、「日本には天理という素晴らしい所があって、そこへ行くことを毎年みんな心待ちにしているんです」と。 すると職員さんが、「そんな所あるはずがない。騙されているんだろう」と言うので、Tさんはいつもの調子で「一度行ってみればわかりますよ」とお誘いし、税務署の窓口の職員さんをまとめてお連れしたとのこと。Tさんの器の大きさに驚かされました。 そんな彼の信仰信念を垣間見た出来事があります。Tさんと一緒に帰参する予定だったある母親と小学生の息子さん。息子さんはもともと腎臓病で少し顔が黒ずんでいました。 出発を前に体調を崩し、お医者さんから「日本行きは中止するように」と言われ、母親は仕方なくTさんに帰参出来ないことを伝えました。するとTさんは、「大丈夫、病気だからこそおぢばへ行くのですよ」と一歩も引きません。果たして、...
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  • 母が大切にしていたもの
    2026/07/10
    母が大切にしていたもの 大阪府在住  山本 達則 ある日、50代後半の男性Aさんが、天理教の教会長をしている私に相談があるということで、訪ねて来られました。 Aさんは、父親が早くに亡くなり、母親と同居していました。そして、その母親もおととし亡くなったのですが、未だ納骨をせず、自宅に遺骨を置いたままになっているのです。 と言うのも、Aさんの両親は天理教の熱心な信者でしたが、Aさん自身は天理教のことはまったく知りません。父親が天理の納骨堂に入っているので、夫婦同じ所に入れてあげたいという思いはありながら、天理教に知り合いがいないので、どうしたものかと思案に暮れている所で、伝手を頼って私を訪ねて下さったのです。 私はさっそく手続きを進め、納骨の日を待ちましたが、Aさんの奥さんと一度もお会い出来ていなかったこともあり、納骨までに一度Aさんの自宅を訪ねることにしました。 母親の遺骨は、和室に丁寧に祀られていました。そして、その横にはA4ぐらいの大きさの紙に筆書きで何かの言葉が記されていました。 それはよく見ると、 「大恩忘れて小恩送るような事ではならんで」(M34.2.4) という神様のお言葉でした。 大恩とは親神様のご守護であり、産み育てて下さる親の慈愛で、日常を生きる根源となる恩。一方で小恩とは、人間同士の日常の暮らしの中での恩。 つまり、人間同士の義理も大切だが、優先すべきは親神様の大恩に報いていく姿勢であり、その心を持ちつつ、小恩にも感謝することが大切であると教えられているのです。 母親は、主人が亡くなってAさんと暮らすことになった時、このお言葉の書かれた紙を、自分の部屋の枕元に大切に掲げていたそうです。Aさんは、その意味は分からずとも、「きっと母が大切にしている言葉なんだな」と思っていたとのこと。私は、自分で理解している範囲で、Aさんにそのお言葉についてお話しさせて頂きました。 天理教では、自分自身の身体をはじめ、家族、日常接する人たち、仕事や学校、生活環境など、自分の心以外はすべてが親神様からの「かりもの」であると教えられます。 朝起きて、準備を済ませ、仕事や家事に動き出す。いつもと変わらず務めを終えて、当たり前のように帰宅し、食事、入浴、就寝。ある意味「何の変哲もない一日」であり、「当たり前の一日」のように思えます。 しかし、本当にそうでしょうか? 朝、必ず目が覚めるという確約は、誰が出来るでしょうか。 食事がとれる元気な身体で、一日をスタートさせる事が出来るのは、当たり前のことでしょうか。 仕事場や学校まで何事もなく行け、いつもと変わらずに家路につけることは、それほど大したことではないのでしょうか。 それらのことを、家族の一人ひとりがやり遂げ、一日を過ごし終えることは、「当たり前」のことなのでしょうか。 人はややもすると、人間同士の義理や人情に対しては恩を感じやすいのですが、「生かされていることの大恩」に対しては、あまりにも当たり前過ぎて、感謝することを忘れてしまう。 そのことに気がつくのは、当たり前が当たり前でなくなった時です。当たり前のように過ごす、そんな感謝につながらない生き方に対して、立ち止まって見つめ直す機会を下さるのが、「当たり前でなくなる」こと。それが、様々な形でお見せ頂く「病気」や「事情」なんです。 天理教では「大恩」、つまりは親神様から頂く大いなるご守護にしっかりと感謝をさせて頂き、その恩に報いる生き方を教えられています。それは自分自身の身体のことだけではなく、家族やその他の人間関係に至るまで、すべてが親神様から与えられているもので、そのことにも感謝を忘れてはいけないと教えられているのです。 私は届かないながら、そのようにお話をさせて頂きました。 Aさんと奥さんは、深くうなずきながら私の話を聞いて下さいました。そして、「今のお話を聞かせて頂いて、母の姿と重ねてすごく納得できました」と、Aさんは言いました。 「母は、いつも子供たちに対して『ありがとう』とお礼を言う人でした。そして、私たちきょうだいにも...
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    1分未満
  • 神が引き受けて居る
    2026/07/17
    神が引き受けて居る 福岡県在住  内山 真太朗 毎年3月、おぢばで開催される、学生生徒修養会大学の部・高校卒業生コース、通称「学修」。私は長年、この学修のスタッフとして携わってきました。 新型コロナウイルス感染拡大の影響で、数年間中止となりましたが、2023年、数年ぶりに開催されることとなり、3月10日から12日にかけて開催される高校卒業生コースのスタッフとしてお声がけを頂きました。 しかし当時、私の妻は4人目の子供を妊娠中で、ちょうど学修期間中と出産予定日が重なり、上3人の小さな子供たちの世話もあることから、今回は学修のスタッフを務めることは難しいだろうと考えていました。 お断りの連絡を入れようとした正にその日、学修を運営する本部学生担当委員会から連絡を頂き、今回の学修ではこのような係をおつとめ頂きたいとの打診がありました。断ろうと思っていた矢先の連絡に驚きましたが、これも神様からのお導きだと考えをあらため、妊娠中の妻と相談をしました。 そして、「人類のふるさと『おぢば』に帰ってくる学生たちを迎える大切な御用だから。自分たちの子供は親神様、教祖が必ず守って下さるよ」と二人で心を定め、学修のスタッフを務めさせて頂くことにしました。 3月7日、学修に出発する日、臨月を迎えていた妻でしたが、まだ出産の兆しはなく、学修が終わる3月12日に入院するという予定を立て、おぢばへと向かいました。 そして迎えた久しぶりの学修。大勢の学生たちが集い、スタッフたちも一緒になって春のおぢばでかけがえのない時間を過ごし、私もその一端を担わせて頂くことが出来ました。 学修も無事終わり、教会への帰路の途中、妻が入院している産婦人科から連絡がありました。「エコーで胎内を見たところ、胎児の首にへその緒が巻きついています。このままだと胎児の命に危険が及ぶので、すぐに処置をして出産に入ります」。 あまりのことに驚き、不安でいっぱいになりました。私は夜遅くに教会へ着くと一目散に神殿へ向かい、お願いづとめをつとめ、病院へと向かいました。素早く処置をして頂いたおかげで、首に巻きついたへその緒は外れ、妻は無事に元気な男の子を出産しました。その後、主治医の先生からこのような説明を受けました。 「今日入院していて本当に良かった。エコーで確認しなければ、処置が遅れて取り返しのつかない事態になっていました」。 そもそも妻を入院させたのは、私が学修のために不在になることがきっかけでした。もし学修のスタッフを断って私が側についていたら、陣痛がくるまでそのままにしていたかも知れません。そこを思い切って学修スタッフを務めたおかげで、胎児の命をつなぐことが出来たのではないか。そう考えると、断ろうと思っていた矢先の一本の電話こそ、神様のお声だったのではないでしょうか。 出産を見届け、医師の説明を受けた後、深夜に病院を出ました。夜空を見上げ、一連の出来事を振り返ると、親神様の深いお導きを感じ、涙が止まりませんでした。 神様のお言葉に、 「先は神が引き受けて居る。案じる事要らん/\」とあります。(M33.12.22) 神様の御用、また神様のお喜び下さることを第一に通っていれば、神様が必ずおたすけくださる。私はあらためて、おぢばの尊さ、神様の御用を務める大切さ、有り難さを実感させて頂きました。 麻と絹と木綿の話 日本発祥のものの中で、便利な道具はたくさんありますが、その中でも風呂敷は最高傑作の一つではないでしょうか。 風呂敷はどんな形の物でも包むことができ、使わない時には小さく折り畳んで持ち歩けます。かけてもいいし、敷いてもいい。まさに自由自在の働きです。西洋式のカバンではこうはいきません。 風呂敷の持つこうした特質は何に由来するのか、それはその開かれた姿によると言えるでしょう。丸いものでも四角いものでも、細長いものでも平たいものでも、何でも内に包み込むその大きな包容力こそ、風呂敷の一番の長所です。 このような包容力は、私たちにとっても大切なものではないか。教祖はある時、着るものに例えてお諭し下...
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