『#039「弥陀をたのむ」とは、観念的・抽象的な阿弥陀仏をたのみにすることではなく、具体的に、今、口から出ている南無阿弥陀仏をたのむということでしょうか?』のカバーアート

#039「弥陀をたのむ」とは、観念的・抽象的な阿弥陀仏をたのみにすることではなく、具体的に、今、口から出ている南無阿弥陀仏をたのむということでしょうか?

#039「弥陀をたのむ」とは、観念的・抽象的な阿弥陀仏をたのみにすることではなく、具体的に、今、口から出ている南無阿弥陀仏をたのむということでしょうか?

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#039回は、質問箱の以下の質問について話をしました。

質問:

「弥陀をたのむ」とは、観念的・抽象的な阿弥陀仏をたのみにすることではなく、具体的に、今、口から出ている南無阿弥陀仏をたのむということでしょうか?


質問箱には以下のように回答しています。

はい。口から称名となって称えられている南無阿弥陀仏以外に、何か「概念としての」南無阿弥陀仏を想定しても、それは自分の想像したものです。

「弥陀をたのむ」の弥陀とは、南無阿弥陀仏と称えられているこの南無阿弥陀仏です。 

これに加えて話をしています。

話の中に出てくる根拠

わが弥陀は名をもって物を接したもう。ここをもって、耳に聞き、口に誦するに、无辺の聖徳、識心に攬入す。(教行信証行巻)


「帰命」ともうすは、如来の勅命にしたがいたてまつるなり。(尊号真像銘文)


質問や感想は以下によろしくお願いします。

ブログ安心問答ー浄土真宗の信心について

x:@anjinmondou


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