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サマリー
あらすじ・解説
序)「もはや罪人ではない?!」
・聖書がいう「罪人」とは、神様との関係が切れている人のこと(対概念である「義人」は神様と繋がった人)。倫理的問題はその結果現象。
・救われてからも「生まれながらの罪の性質」を感じるし、罪を犯すが、それは「罪人」だからではなく「からだ」に沁みついている癖による。
・内なる人が強くされるなら、からだを治めることができる。これが「自分に死に、キリストに生きる」よみがえりの経験である。
1)「聖なる者」という自己認識
・「聖徒」=「聖なる者たち」≠「罪赦された罪人」←聖書にはない表現→教会の歴史の中で「聖人」という特別なカテゴリーが造られてしまったことは問題。聖書はクリスチャンを皆「聖なる者たち」と呼んでいる。
・「キリストにある忠実な」というのは、キリスト・イエスによって信頼に値する者というニュアンスがあり、キリスト・イエスに対する信頼によって「聖なる者」とされたことを語っている。
2)エペソ人への手紙の特殊性
・この手紙はエペソ教会限定ではない。「エペソの」はオリジナルの手紙にはなく、この部分が空白だった可能性が濃厚。紀元 1 世紀のあらゆる町の名前が入り得る状態で書かれた手紙と考えられる。
・「エペソ人への手紙」は、特定の教会の特定の問題を解決するためのものではなく、教会一般に関することを教えることを目的にしている。
・だから「キリスト・イエスにある忠実な府中の聖徒たちへ」と読み替えて差し支えない。
3)大胆な祈りの根拠~天上に招かれている私たち~
・「天上にあって」はエペソ人への手紙のキイワード。1 章 20節ではキリストが着かれた「神の右の座(父なる神の権威をすべて行使できる完全な立場)」を指しており、2 章 6 節ではそこに私たちが(霊的に)「ともに座っている」と語られている!
・私たちは祈りにおいて「イエス様のお名前によって祈ります」という類の言葉を言うが、これはイエス様に仲介を願うものではない。イエスの名によって祈るとは、イエス様の代理人として祈るということ。
・そのような立場に招かれたのは「神のみこころ」があるから。1 節の「神のみこころによる」はパウロの選びと共に、聖なる者の救いに目的があることを示している。それは天上の祝福を地にもたらすこと。
結)一つのはしごとされた私たち~天上の祝福をこの地に変換する~
・福音讃美歌 234 の 3 節は誤解を招きやすい。「心は天の幸に憩う」なら地上にある「からだ」に、その幸いが伝わり、世界に現わされる。