• #105 「等身大」を貫く勇気――「自由と納得」を大事にするエグゼクティブコーチ、八起さんの人生物語 ②
    2025/12/13
    1.「あ、私それになる」──その瞬間、すべてが動き出した就職へのモチベーションがなかった。専業主婦になるつもりだった。それなのに、慌てて就職活動をして、なんとか福岡の不動産会社に滑り込んだ八起さん。1日100件の営業電話をかける日々。バリバリの営業職。新人賞を獲得するほどの成績を残しながらも、社内のゴタゴタで退職。誰もが「普通の人生」を歩むと思っていた24歳の女性が、ある出会いで、22年続くコーチング人生への扉を開けることになります。その出会いとは、、、 2.変屈な私でも、納得できた「私、結構変屈だと思っていて」八起さんは自分をそう表現します。何かを学ぶとき、いつも心の中で「いや、そうは言っても」「ここが押し付けがましくないか」と疑問を抱いてしまう。素直じゃない、可愛くない。そんな自分に気づいていました。恋人との喧嘩が絶えない。喧嘩をしたくて付き合っているわけじゃないのに、どうしてもぶつかってしまう。どうしたもんか──。そんな悩みを抱えていたとき、朝日カルチャーセンターの新聞広告で「コーチング」という言葉を見つけました。カルチャースクールに通い始めた八起さん。そして、運命の2回目の講座で、講師がこう言いました。「コーチングを専門にして、1対1でコーチをする職業があるんだよ」その瞬間──「あ、私それになる」恋愛の悩みはどこかへ消えていました。 3.高校時代から繋がっていた、見えない糸説明会で提示された会社名は「コーチ21」。スクリーンに映し出された社長の名前を見て、八起さんは息を呑みました。「伊藤 守」高校時代、繰り返し繰り返し読んでいた本の著者。あの伊藤 守さんが作った会社。「絶対間違いない」働いて貯めたお金、約70万円を迷わず即申し込み。福岡から電話会議システムという当時の最新の技術を使って、スクールに通い始めました。 4.「自由」という言葉がポロッと出た瞬間八起さんの口から、何度も出てくる言葉があります。「自由」と「納得」小さい頃から、制約されることが苦しかった。納得しないと前に進めない。そんな変屈な自分でも、コーチングは受け入れてくれました。押し付けない。教えるというスタンスを貫かない。自分に考えさせる。自分に気づかせる。「自由に、自分のペースで成長ができる。そんな変屈な私でもやっていけるっていう確信しかなかった」2005年1月2日。開業届を提出。それから22年間、八起さんのコーチング人生が始まります。 5.売上は好調。なのに、心は地獄だった。「クライアントは目標を達成していく。でも、私には、それがハリボテにしか見えなかった」八起さんがそう語る時、その声には今でも当時の苦悩が滲んでいました。35歳で育児休暇から復帰した彼女が飛び込んだのは、いわゆる「稼げる系コーチングスクール」。売る方法は完璧に教えてくれる。実際、売上は順調に伸びていきました。でも、提供するコーチングの質は「ズタボロ」。目先の目標達成だけを追いかけ、クライアントの本当に大切な価値観、腹の底にある想いには触れることができない。自分が良いコーチングができていないことを、誰よりも自分自身が分かっていたのです。「良くないものを売り続ける苦痛が、きつすぎた」 6.「計画的育児休暇」の5年間実は八起さん、20代でコーチングの道に入り、順調にキャリアを積んでいました。個人クライアントへのコーチング、研修講師。副業もしながら、着実に実績を重ねていた彼女が選んだのは、30歳から35歳まで丸5年間、仕事を完全にストップして育児に専念すること。「保育園に預けるという発想を持っていなかった」と笑う彼女ですが、その5年間は単なる休息ではありませんでした。「毎日トライアスロンをやっているみたい」自分の限界を突破し続ける日々。3人の子どもを育てながら、彼女は"プロの専業主婦"として、自分と向き合い続けていたのです。 7.技術を取り戻す――そして、仲間を救う稼げる系スクールを離れた八起さんは、コーチングのスーパービジョン練習会に通い、徹底的に自分の技術を立て直しました。すると、...
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  • #104 「専業主婦のプロ」を目指した女性が、「裏方のプロ」になるまでの八起さんの人生物語 ①
    2025/12/09
    なぜ、彼女は中学時代に「鎧」を着ていたのか?「芸能人に詳しくないと…深夜番組を知らないと…1日3本映画を見に行けないと…」私立女子中学で感じた息苦しさ。周りに合わせるために着ていた見えない鎧。でも、公立高校に転校したその日、彼女は初めて気づいたのです。「あ、自分のままでいいんだ」と。その瞬間、彼女の人生が動き出しました。今回のゲストは、コーチング歴22年のプロのエグゼクティブコーチ、八起(やおき)さん。福岡を拠点にオンラインで全国のクライアントをサポートし、コーチ育成にも携わる業界屈指のベテランです。1.“鎧”を着て生きた中学時代八起さんの原点は意外にも、「大人数が苦手」「女子より男子と遊ぶ方が楽」「自由でいたい」という、少し風変わりな小学生時代にありました。八起さんが語る中学時代の「鎧」事件は、多くの人の心に刺さる物語です。私立女子校で感じた居場所の悪さ。友達と遊びに行けば、休日に3本も映画を見るような派手な遊び方。芸能人や深夜番組の話題についていかなければ、、、「どんだけお金使って遊ぶんだろう」「そんなに何本も映画なんて見たら疲れるよ」と心の中で思いながらも、無意識に合わせていた自分。2.鎧を脱いだ少女の再生物語家族の引っ越しをきっかけに公立高校に転校したとき、世界が一変しました。「裸で運動場を駆け回るみたいな素朴な学校」で、彼女は初めて鎧を脱ぐことができたのです。私立時代には「知らない方」だった自分が、公立では「いろんなことを知ってる人」になった。友達から「そんなに知らなくても全然いいんだって」と言われたとき、彼女は悟りました。「私、努力しなくていいんだ。ついていこうとしなくていいんだ」と。この経験こそが、八起さんの今のコーチング哲学を形作っています。3.人は変わらない。でも“環境”が人を活かす「人は根本では変わらない。でも、それとどう付き合うか」。気を使う性格も、自由を求める心も、大人数が苦手なところも、小さい頃から変わらない。でも、環境によって、その個性が苦痛にもなれば、強みにもなる。両方の学校を経験したからこそ、彼女は「自分にとっての心地よさ」を知ることができました。4.高校時代に見つけた「自分の役割」執行部という部活動。40km遠足の企画運営。文化祭の副運営委員長。表舞台に立つのではなく、裏でゴソゴソと準備をする。当日、みんながスムーズに動いていく様子を見守る。「私がトップの役をやることは違うな」派手な運動会の盛り上げ役には関わらない。でも、行事の裏方では誰よりも輝いていた。彼女は気づいたのです。自分の好きなの裏方。**「人がうまくいくサポートをすること」**だと。5.あなたは、自分の「役割」を知っていますか?大学生の頃、多くの同級生が就職活動に奔走する中、一人の女性は違う夢を描いていました。「私は、有能な専業主婦になりたい」周りからは珍しがられたその夢。でも彼女の中では、すでに明確な人生哲学が確立されていました。6.専業主婦も、コーチも、本質は同じ「専業主婦は家族がうまくいくことをサポートする影の存在」「コーチはクライアントがうまくいくのをサポートする影の存在」主役はあちら。私は裏方。そう語る八起さんの目は、驚くほど澄んでいました。学生時代から一貫して持ち続けてきたこの価値観。それは今も、彼女の人生を貫く一本の軸となっています。7.「やってみる」ことで見えてくる道多くの人が気づかない自分の適性を、なぜ八起さんは早くから理解できたのか?答えはシンプルでした。「やりたいことをやってみる人だったから」合うこと、合わないこと。好きなこと、苦痛なこと。ひとつひとつ試して、確認して、自然と「自分」が見えてきた。父親が会社経営者だったこともあり、就職というレールを意識せずに育った彼女。だからこそ、自分の心に正直に生きられたのかもしれません。8.付け焼き刃の就職活動、そして...「卒業と同時に結婚」の予定が、相手がいないという現実に直面。慌てて始めた就職活動は、企業にことごとく見破られ、内定は一社...
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  • #103 50歳で廃業、そして再起。「仕事がある喜び」に気づいた北村さんの人生物語4
    2025/11/21
    うれしーーーーい!なんと北村さんが2度目の登場です! まさか2度も出演して下さるとは思っていなかったので、びっくり。 今回は、新生北村!新しく生まれ変わった北村さんの人生物語です。 成功を恐れる経営者の、誰にも言えなかった本音がここにあります。 あなたは今、何と戦っていますか?その答えが、この配信の中にあるかもしれません。 1.「俺の方がすげえ」あなたは今、何と戦っていますか? 「俺の方がすげえ」 かつて北村さんの心を支配していた、この言葉。 大企業で出世競争に明け暮れ、ベンチャー企業の「C◯◯O」という肩書きを名刺に刻むことが人生のゴールだった男。成功している人を見ては比較し、自分の価値を測り続けていた。 でも今、彼は全く違う戦いをしています。「他人」ではなく「自分」と戦う日々へ。 2.「このままでいいのか?」現在、50社の顧客を抱え、契約率は驚異の30%(業界平均3%)。一件一件の仕事に真剣に向き合い、目の前の人を大切にする。そのサイクルが「あったかい」と北村さんは言います。順風満帆に見えるビジネス。なのに、なぜ彼は不安なのか?「大きな成功を手にした時、また昔の自分に戻ってしまうんじゃないか?」この番組で語られるのは、成功者の華やかな物語ではありません。むしろ、成功を恐れる経営者の正直な葛藤です。 3.「友達不要論」から「大切な人を大事にする」へかつて効率を追求し、人間関係さえもコスパで測っていた北村さん。それが今では「誰かのために何かをする楽しさ」を知り、「酒がうまい」と感じる瞬間を人生の指標にしています。でも、彼はこう言うのです。「油断すると、また変わってしまう気がする」この価値観の転換は、どうやって起きたのか?そして、なぜ彼は「満心」を警戒し続けるのか? 4.一度は全てを失った経営者が、たどり着いた"本当に大切なもの"とは?大きな仕事を取れば取るほど、心は不安になる。成功すればするほど、失うことが怖くなる。「このままでいいのだろうか…」50歳を過ぎ、一度は廃業を経験した北村さん。 再び起業した今も、心の奥底に迷いを抱えていました。 5.成功の裏に隠された"ビビり"の正体個人事業主として、3年半。順調に見える日々の中で、北村さんは大きな矛盾を抱えていました。「大きな仕事は取りたい。でも、取った時にビビってしまう」なぜなのか?それは、太いご縁が切れる恐怖。安定を手に入れた瞬間に、それを失う不安が襲ってくる。そして何より、自分の"器"への自信のなさ。50歳を過ぎて一度失敗した自分に、本当にそれだけの価値があるのか— 6.対話の中で見えてきた"本質"しかし、対話を重ねる中で、北村さんの表情が変わり始めます。「仕事がある喜び」創業時につけた会社名「Work Be」に込めた想い。それを語る時、北村さんの目は自信に満ち、声にはエネルギーが溢れていました。仕事は単なる収入源ではない。人を成長させ、自己実現のツールであり、そこで作られる関係性に人生がある。営業で何度も断られ、「向いていない」と思った日々。それを乗り越えた先にあった、絶大なる成長とやりがい。 7.たどり着いた答えは、驚くほどシンプルだった「それだけでいい」大きい仕事も小さい仕事も、法人化も個人事業も— 実は、それらは本質ではなかったのです。北村さんが本当に大切にしたいもの。 それは「仕事がある喜び」を伝え続けること。成功する前の絆奏が大切。結果が出ないからと辞めてしまう人たちに、働く喜びを伝えたい。対話の最後、北村さんの顔は驚くほどすっきりしていました。 8.50年かけて気づいた"本当の価値"「もっと早く気づけば良かった」そう笑う北村さんですが、50年かけて気づいたからこそ、 その価値観の変化は本物でした。一度は全てを失った経験。それがあったからこそ、仲間のありがたさ、支えてくれた人たちへの感謝、 そして「仕事がある喜び」の尊さに気づけたのです。 9.聞いてください:本音の経営論北村さんの言葉から「結局、正直に自分を見つめた時、良かったかどうか。仕事も人生の一部。分...
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  • #102 「NO」を97回聞いた男が、法人化という夢に挑むまで。北村さんの人生物語3
    2025/11/20
    うれしーーーーい!なんと北村さんが2度目の登場です! まさか2度も出演して下さるとは思っていなかったので、びっくり。 今回は、新生北村!新しく生まれ変わった北村さんの人生物語です。 北村さんの人生物語は、まだ完結していません。法人化という新たなスタートラインに立つ彼が、これまでの3年半の経験をどう語り、そしてどんな未来を選ぶのか── 今回の人生物語で明かされること ― 数千万円を失った絶望からどう立ち直ったのか?― 97%の断りをどう乗り越えたのか?― 「友達不要論者」から「仲間こそ全て」への価値観の大転換― 法人化を前に揺れる本音と、これからの選択そして何より──成功した後に訪れる「本当の迷い」をどう乗り越えるのか 1.二度目の挑戦、それは絶望からのスタートだった北村さんは、かつて数千万円の早期退職金を全て失い、廃業という痛恨の経験をしています。高校時代、うまく陸上で推薦を受けながら、自分のパフォーマンスを発揮できなかった時から、彼の人生は「うまくいった瞬間にこける」パターンを繰り返してきました。愛知県から東京へ、そしてグループ全体の責任者へ ──20年間積み上げたキャリアは、上司との衝突で一瞬にして崩壊。そこから始まった再起への道。それは想像を絶する厳しさでした。 2.97%の「NO」と向き合う日々ゼロから顧客を作る。ペンネーム「Work Be」として活動を始めた北村さんを待っていたのは、月100件のうち、97件に断られるという現実でした。そう97%も断られ続けたのです。普通なら心が折れる数字です。しかし、彼は歩み続けました。Work Be売上推移の数字だけ見れば成功です。でも、北村さんは今、迷っています。 3.「このままでいいのか?」法人化の決断に揺れる心株式会社として正式に歩み出す──人生に一度あるかないかの節目。嬉しいはずのこの瞬間に、北村さんは立ち止まります。「一定作りたい世界は作れた」「でも、過去を振り返ると、そう思った瞬間にこけてる」成功体験がトラウマになる。そんな矛盾を抱えながら、彼は自問します。このやり方を続けることが、本当に正しいのか? 4.3年半で掴んだ「本当の宝物」数字、実績、安定した生活──それらを手に入れた北村さんが気づいたこと。それは、**「仲間の存在」**でした。97%断られる中で出会った仲間たち。一緒に仕事を取りに行く相棒。支えてくれる友人たち。「組織にいた時は、同僚や後輩がいるのが当たり前だった。でも今は違う。1人だからこそ、仲間の存在の大きさが分かる」かつて「友達は踏み台」と言い切っていた男は、今こう語ります。「全ては仲間がいて実現している」 5.80点から90点への挑戦──彼が選ぶ次のステージとは?0点から80点への道のりは険しくとも、確実に前進できました。しかし、80点から90点へ──この10点が、最も難しい。「3年続けることには可能性がある。でも、同じことを10年続けることが正解なのか?」法人化という節目を前に、北村さんは新たな決断を迫られています。 6.人生は、うまくいった時こそ試される仕事がうまくいった日。 北村さんは一人で飲みに行きます。 それは、自分への問いかけの時間。「慢心していないか?」「大切な人を大切にできているか?」 7.かつて「友達不要論者」だった男の告白「なんで分かってくれないんだろう」「自分が正しい、自分が一番できる」北村さんは、そんな風に考えていた時代を振り返ります。 客観的に見ると「つまんないやつだった」と。そこに戻りたくない。その強い思いが、今の彼を支えています。 8.廃業という転機が教えてくれたもの厳しい廃業を経験し、必死で生きていく中で、気づいたら価値観が変わっていた。今、北村さんが大切にしているのは2つ。①大切だと思う人を大切にできること (スターになりたいわけじゃない)②相手を思う気持ち (プレゼントを渡す前に考えている時間が楽しい)50歳を過ぎて気づいた、この喜び。 9.成功の陰にある、静かな悩み「いいやつの後ろには、いいやつがいる」多くの人に支えられ、濃厚な時間を過ごす日々。 でも...
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  • #101 「辛いからこそ、楽しい」 人生を変える"繋がり"の法則を楽しむ 樫村さんの人生物語2
    2025/11/19
    「辛いからこそ、楽しさが増すんです」42.195kmを走り切る苦しみ。山頂を目指す険しい道のり。それでも、また挑戦したくなる理由。 今回の「オンリーワン」では、 ランニングコミュニティ「RANVE」を通じて人と人を繋ぎ続ける樫村さんの人生に迫ります。 1.体調不良をきっかけに気づいた「本当の健康」とは?「心臓に良くないと思っていたんですよ」そう語る樫村さんは、かつてランニングを避けていました。体には自信があり、大きな病気もしたことがない。そんな彼の人生が大きく変わったのは、2019年の出来事がきっかけでした。韓国旅行から帰国後、突然襲った「帯状疱疹」。痛くて眠れない夜。「こんなにしんどいのか」と初めて自分の体の限界を知った瞬間でした。医師から告げられた言葉は「ストレスから来ているのでは」。自分は健康だと思っていた。でも、そうじゃなかった―。 2.夏の夜、山下公園で始まった小さな一歩人生の転機は、意外なところから訪れます。ビジネスで交流のあった小池さんが、夜な夜な山下公園でランニングをしていることを知った樫村さん。興味はなかったけれど、「これも何かのご縁かな」と思い、一緒に走ってみることにしました。夏の夜風。汗をかいた後の、立ち飲みの焼き鳥屋でのビール。「ラン後のビールが、めちゃくちゃ美味しくてですね・・」そこから始まった小さな習慣が、やがて450人のコミュニティへと成長していくことになるとは、誰が想像できたでしょうか。 3.「旗の下に人が集まる」―ラン部誕生秘話2人から3人へ。そして徐々に仲間が増えていく中で、樫村さんたちは「グローバル人事塾RAMVE」を立ち上げます。「ラン部だと、よくわかんないから、ローマ字でRANVEにしよう」「RANVEの「V」はビクトリーのVですね」デザイナーに依頼して作ったロゴマーク。そして、人事塾同様のサイズの旗。「旗の下に人が集まるっていう本能を考えて、なんと旗も製作」旗の製作費を捻出するため、小池さん企画:村田さんへ講師を依頼し、ランニングセミナーを開催。コロナ禍の2020年、オンラインで集まった参加費で、ついに旗が完成しました。 4.健康、つながり、そして人生の豊かさ「足は動くんで」右肩を脱臼する自転車の事故に遭われたも関わらず、樫村さんは近くハーフマラソンに出場する予定です。樫村さんがランニングに見出したものは、単なる健康維持だけではありません。・島を走り、山を走り、現地のランナーたちと出会う。・旅先で見る景色。・仲間との語らい。「人生の豊かさを広げてくれる」そして、樫村さんにとっての豊かさとは―「人と人との繋がりの中で生まれるもの。自分から進んで動いた結果として、自然につながっていく関係」 5.フルマラソンの苦しみの先に見つけた、人生の真理「辛いからこそ、楽しさが増すんです」樫村さんは、42.195kmを走り切る苦しみについて、そう語り始めました。フルマラソンを走っている最中は、むちゃくちゃ辛い。めちゃくちゃしんどい。でも、最後まで走り切った時の達成感と楽しさがあるから、やめられない。そして、その感覚はマラソンだけでなく、人生のすべてに通じている。40代で出会ったランニングが、樫村さんの人生を大きく変えました。ランニングコミュニティ「RANVE」を通じて、新しい出会いが生まれ、その繋がりが次の繋がりを呼び、気づけば出版の話まで舞い込んでいたのです。『「RANVE」に誘った難波さんのご縁で大村さんと出会いました。そこから繋がっていったんです』そう『副業の超基本』です。樫村さんの言葉には、人との出会いへの感謝と、その偶然の連鎖への驚きが込められていました。 6.すべての行動の中心にある、たった一つの軸仕事、出版、ランニングコミュニティ、グローバル人事塾、そして昨年からスタートしたランニングチーム。一見バラバラに見える活動の数々。しかし、それらすべての中心には、たった一つの明確な軸がありました。「繋がりを作る、ということですね」 樫村さんは、自分の人生にとって最も大きなキーワードは「繋がり」だと語ります。それは、...
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  • #100 「今日、生きていてよかった」と思える樫村さんの人生物語1
    2025/11/18
    記念すべき100回目の配信は、いつも大変お世話になっている樫村さんです。パチパチパチ「今日、生きていてよかった」と思える樫村さんの人生物語を配信しました。1.いじめっ子だった少年が、人と人とを繋ぐリーダーになるまでいつもエネルギーに溢れ、行動力が半端でない樫村さん。ゼスト株式会社代表取締役、一般社団法人グローバル人事塾では、どんな場面でも、優しく場をまとめる“兄貴分”的な存在です。けれど――彼の人生を深く聞いてみると、まったく違う顔が見えてきました。横浜で生まれ、大阪、横須賀と転々としながら、常に「水」がそばにある生活環境で育った樫村さん。子供時代はガキ大将、学生時代は引っ込み思案、そして社会人では独立されて人を導くリーダーへ。55年以上の人生で培われた、**樫村さんの「本当の強さとやさしさ」**を、あなた自身の耳で確かめてください。 2.幼い日のトースター事件「幼稚園の頃、お腹が空いて、自分でパンを焼こうとしたんです。そしたら、トースターが燃えちゃって…」幼い樫村さんは、目の前で火があがるのをただ見ていることしかできなかった。どうしたらいいか、わからなかった。「両親がそばにいない寂しさ。何もできない無力感。」その光景は、50年以上経った今でも鮮明に記憶に残っています。それは、樫村さんの人生に繰り返し現れる「原体験」だったのかもしれません。 3.両親の離婚、そして“何もできなかった”悔しさ小学1年生のとき、両親の喧嘩。父が母に手をあげ、幼い彼はその場に立ち尽くしました。「悲しい。辛い。でも、どうすることもできない。」母をかばいながら、その無力感が胸に焼きつきました。愛情を求めても、うまく届かない。そんな“寂しさ”が、彼の中に静かに根をおろしました。 4.引っ込み思案の学生時代学生時代の樫村さんは、あなたが今見ている姿とは正反対でした。2〜3人の決まった友人としか遊ばない、非社交的な若者でした。 「えっ、あの樫村さんが!?」そう、信じられないかもしれません。毎日ライブハウス・レコード店に通い、音楽に没頭する日々。それは社会への反抗でもあり、現実からの逃避でもありました。「掴みどころのないありふれた人間」――周りから見れば、**「何者なんだ?」**という存在。「自分が好きになれなかった」孤独な人生。深い人間関係を築けない苦しさ。30代半ばまで、そんな日々が続きました。あの人を惹きつける笑顔も、愛嬌のあるトークも、実は“努力の結晶”だったのです。 5.しかし、そんな彼が変わった理由とは?「愛情に飢えていた10代」「寂しがり屋とリーダー、両方の顔を持つ矛盾」「2008年4月、起業という決断」樫村さんの人生には、私たちが学ぶべき**"何か"**があります。それは、過去のトラウマや弱さを抱えながらも、人生を切り開いていく勇気と行動力です。 6.43歳、人生が変わった瞬間「目立つのは嫌いだった。でも、どこか自由なアウトローに憧れていた」今では「とても社交的ですね」「コミュニティづくりが得意ですね」と言われる樫村さん。しかし、20代・30代の彼は、まったく違う人間でした。2013年、樫村さんが43歳のとき、すべてが変わりました。きっかけは、GCDF(グローバル・キャリア・ディベロップメント・ファシリテーター)という国際資格。資格取得後の継続学習プログラムを見て、彼は思いました。「高すぎるセミナー費用。これに毎月何万円も払うのか…?もっと安価で受講できるプログラムはないのか・・?」そして、ある決断をします。「だったら、自分で継続学習の場を作ればいいんじゃないか」 7.「グローバル人事塾」誕生2023年、樫村さんは『人事の力で世界をかえる!』をビジョンに「グローバル人事塾」を立ち上げます。最初はたった3人でスタートし、今では50名の有志・仲間が支えてくれている。月2〜3回、全国で10数年以上継続する人事コミュニティへと成長しました。でも、本業の時間を削って人事塾を存続させる意味はあるのか?と道半ばで自問自答しながらも、樫村さんは続けることができたのでしょうか?理事の松田さん曰...
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    30 分
  • #99「命とは時間だ」―亡き父と母が教えてくれた大村さんの人生物語2
    2025/11/16
    1. あの日見つけた父の手紙が、人生を変えた ―「1日1秒を、命だと思って生きている人はどれくらいいるだろう?」会社員として多忙を極め、ストレスを酒で流しながら過ぎていく日々。そんな大村さんの人生が、一通の手紙で一変します。それは、41歳という若さで亡くなった父が、亡くなる数ヶ月前に書いた「最後の手紙」でした。「もっと生きたかった。1秒でも長く…」その言葉を目にした瞬間、彼は初めて“父と繋がった”と感じたと言います。そして気付くのです。自分が浪費してきた時間こそが、父の望んだ“生きたかった時間”だと。その日を境に、彼はお酒を断ち、「命を使う=使命を生きる」という生き方へと舵を切りました。そこから始まった人生の再構築。学び、出会い、コミュニティ、そして――出版。 📘 初著『片付けパパの最強メソッド』は、「部屋から人間関係、そして人生まで整える」というコンセプトで誕生。講演で出会った編集者の一言がきっかけでした。 偶然か、必然か。コロナ禍で空いた時間が、彼の人生の“使命”を形にするために用意されていたように。「命とは時間」「使命とは、命をどう使うか」大村パパさんの言葉には、体験からしか出てこない重みがあります。 2.【命=時間】亡き母が教えてくれた“人生の本質”あなたは、「命とは何か?」と聞かれたら、どう答えますか?大村さんがその答えに出会ったのは、母を看取った日のことでした。病室で、静かに息を引き取る母を前にして——「時間が止まったような空間」がそこにあった。その瞬間、大村さんは悟ったのです。「命って、“時間”のことなんだ。」その気付きが、すべての始まりでした。父、母と相次いで見送った経験。後悔、喪失、そして静かな確信。「命とは時間。そして、時間を大切にすることこそ、人を大切にすること。」それ以来、大村さんの人生は180度変わりました。仕事も人付き合いも、「どう時間を増やせるか」で考えるようになったのです。ある時、ホームページの設定に1日かかりそうな作業を、ITに詳しい友人が30分で解決してくれた。その瞬間、大村さんは気づきます。「あ、人と人が“得意”を分け合えば、時間を増やすことができるんだ。」それ以来、大村さんはこう呼んでいます。お互いの時間を増やし合える人を——「仲間」と。彼の活動はすべて、この哲学に貫かれています。講演も、本の執筆も、そして「まんせきBar」という交流の場も。そこには、単なるビジネスの話ではなく、「どうすれば命(=時間)を豊かにできるか」という問いが流れています。 3.「副業の超基本」──10年前の自分に届けたい1冊「副業を始めたいけど、何から手をつけたらいいのか分からない」「本業が忙しくて、時間もエネルギーも残っていない」そんな方々のために大村さんは、樫村さんと一緒に『副業の超基本』を12月5日に出版されます。3.1 サラリーマンを続けながら、副業を10年大村さんは某大手電機メーカーでマーケティング、そして現在は人材開発を担当。平日は会社員として働きながら、もう10年以上“副業”を続けてきました。言葉で言うのは簡単ですが、現実は甘くありません。時間は限られている。家族との時間、体力、そして心のバランス。それでも彼は、**「副業で人生を整える」**道を歩み続けてきました。それは、単なるお金稼ぎではなく、**「自分の生き方を整えるもう一つのキャリア」**だったのです。3.2 手探りの10年で気づいた“近道”がある「副業を始めた頃、正直、何もわかりませんでした。」と語る大村さん。だからこそ、この本には、**10年前の自分が読みたかった“地図”**が詰まっています。「無駄な時間を使ってほしくない」「遠回りじゃなく、近道を選んでほしい」経験者だからこそ言えるリアルな“超基本”。それはネット検索では手に入らない、実践者の知恵と、誠実なリアルを書かれています。3.3 副業は「がんばる」より「整える」この本は、副業ノウハウ本ではありません。それは、大村さんが“片付けパパ”として提唱してきた哲学とつながっています。「部屋が整えば、人生も...
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  • #98「部屋を整えたら、人生が動き出した」──片付けパパ・大村信夫の整う生き方物語1
    2025/11/15
    「マクドナルドに授業を抜け出して行ったのが、人生で一番の悪事かもしれません」そう笑って語るのは、整理収納アドバイザー1級とキャリアコンサルタントの資格を持つ「片付けパパ」こと大村信さん。 部屋を片づけると、人生まで整っていく。そんな話を聞いたことがありますか?ただの整理収納アドバイザーではありません。彼はこう語ります。「物の片付けから、人間関係、そして人生まで整える」 そう、部屋を整えることは、自分の生き方を整えること。そんな哲学を持つ“人生の整理人”です。 1.優しい少年が、静岡の田舎で育った日々父親がいない環境で、おばあちゃん、お母さん、8歳離れたお姉さんに囲まれて育った彼は、「手のかからない子」でした。子どものころの大村さんは、とてもおとなしくて素直。女の子と遊ぶほうが安心する、競争よりも「みんな仲良く」を願う、のび太君のような少年時代。ところが、その背景には深い物語があります。大村さんは幼い頃に父親が白血病で亡くなられ、お母さんとおばあちゃん、そしてお姉さんに囲まれて育ちました。「だから、男性には苦手意識があったんです」——この言葉には、彼の優しさと繊細さがにじんでいます。 2.浪人、挫折、そして母への申し訳なさ──高校時代。時はバブル崩壊直後。「銀座で働くビジネスパーソンの就職は厳しくなる」、「理系なら潰しが効く」という情報を信じ、高3直前に文系から理系へコース変更という無謀な挑戦。成績優秀だった彼は、東京の大学から指定校推薦のオファーまで受けていましたが、「聞いたことのない地味な大学だから」という理由で辞退。猛勉強の末、第一志望の大学を目指して1年間必死に勉強するも、結果は全落ち。浪人するも、皮肉にも、1年前に推薦を断った大学に入学することに、、「推薦で行けるって言われた大学に、1年浪人して結局入学することになった。この1年間の時間とお金は何だったんだ…」普通なら絶望する状況。使った時間とお金は何だったのか──そう母親に謝った大村さんに、母はこう答えました。 「それが運命だったんだよ。この1年間は無駄じゃない。一生懸命勉強して、努力することができたことは、きっと将来のためになる」 しかし当時19歳の大村さんには、その言葉を受け入れる余裕はありませんでした。母子家庭で一生懸命支えてくれた母への申し訳なさ。自分の選択への後悔。大学時代は不真面目に過ごしました。 3.大学での「不真面目」が生んだ、「サバイバルスキル」入学初日こそ出席したものの、1週間後にはほとんど大学に行かなくなった大村さん。バイトに明け暮れる日々。でも、留年はしたくない。そこで彼が身につけたのが──「過去問と資料を集める仲介屋」としてのスキルでした。「これを持ってきたんで、どうですか?」「ギブアンドテイク」「みんなでシェアすれば、みんなハッピーじゃん」競争ではなく、仲間。争いではなく、協力。この「サバイバルスキル」こそが、後に彼の人生を支える核となっていきます。 4.就職氷河期、10月の決断大学4年の10月。周りが内定を決めている中、大村さんはまだ進路を決めていませんでした。大学院に行こうか迷っていた彼に、親戚のおじさんが一喝。「お前の母親、どれだけ頑張ってると思ってるんだ」その言葉でハッと我に返り、就職活動を開始。でも時すでに遅し──1997年の10月、超氷河期です。しかし大村さんは、就職活動の掲示板から1社だけピックアップし、応募。書類選考、1次面接、2次面接、最終面接──すべてパス。SPIも受けず、1社目で内定。「本当に偶然でした」と本人は笑います。 5.「英語喋れます」と言って入社、3週間後に海外出張最初の会社で3年、システムエンジニアとして激務をこなした後、転職。2社目の面接でまた言ってしまいました。「英語、喋れますよ」入社3週間後、いきなり海外出張の辞令。「マジか」と思いながらも、英語メールが半分以上。必死で対応する日々。でも、そこでまた発揮されたのがサバイバルスキル。半年でTOEICが200点近くアップ。海外での仕事もこなせるようになりました...
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