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まことの人

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まことの人                      助産師  目黒 和加子 数年前、ラジオ天理教の時間に『テールランプを追いかけて』というタイトルで原稿を書きました。リスナーの皆さん、覚えておられるでしょうか。 その内容は私が4歳の時、父が事業に失敗し多額の借金を残して蒸発。その辛い経験を子供の視点で書いたものです。放送後、「そのあと、お母さんはどうされたのですか。お元気でしょうか」と母を心配してくださる声を沢山いただきました。今回は、母のその後の生きざまを書いてみます。 失踪してから7年後、私が小学5年生の時に父の居場所がわかりました。家庭裁判所の調停で離婚が成立し、私と弟が二十歳(はたち)になるまで毎月養育費を送る約束でした。 しかし、送られてきたのは半年ぐらいでしょうか。しかも中身は五百円札が一枚とか、百円札が三枚とか、小さな子供にあげるおこづかいのような金額でした。現金書留の封筒を手に、悲しい顔でため息をつく母。そのうち途切れ途切れとなり、やがて届かなくなりました。 この頃から、母の中で何かが吹っ切れたのでしょうか。進んで人様のお世話をするようになり、子供の目から見ても変わっていくのがわかりました。 母は隣町の総合病院に看護師として勤めていたのですが、事情のある若い看護師さんや看護学生さんを抱えるようにお世話を始めたのです。 数年間、一緒に住んだ看護師さんも二人います。二人ともうちからお嫁に行き、うちで里帰り分娩しました。職場では救急外来と手術室の主任を兼任し、周囲から頼られる存在になっていったのです。 母が48歳の時、同じ病院で勤務するK先生が病院を開業することになり、総師長として来てもらいたいと引き抜きの声がかかります。悩んだ末に看護部門のトップである総師長として新たなキャリアをスタートさせました。 母がまず取り組んだのは、子供を持つ看護師や看護助手が働きやすい環境づくりです。病院内に24時間託児所や病児保育室を設置。その結果、離職するスタッフが減り、子育てと仕事が両立できる職場として地域に知られるようになりました。 また、その当時まだ珍しかった訪問看護ステーションを立ち上げ、自ら所長を兼務。地域医療の担い手として看護師を育てました。 そして、持ち前の粘り強さで周囲のスタッフを巻き込み、厚生労働省の定める看護基準の最高ランク「特A」の取得に多大な貢献をしたのです。当時、民間の中小病院では「特A」の取得が難しかった時代、周囲の同業者を驚かせました。 母は74歳で退職するまで25年間、総師長を務めました。長きにわたり続けてこられたのは、ゼロから立ち上げた管理職としての功績よりも、母の人柄によるものだと私は思います。 情に厚く、困っている人をほっておけない母。俗に言うガラの悪い地域にある病院なので、ヤクザの奥さんや刑務所から出てきた人など、びっくりする背景を抱えたスタッフもいたようです。嘘をつかれ、裏切られることもしばしば。それでも人を信じ、温かい情を貫いた母らしいエピソードを一つ紹介します。 木枯らし舞う二月の真冬日。看護助手の求人に応募してきた橋本美加(はしもと・みか)と名乗る35歳の女性を面接しました。5歳の男の子を育てるシングルマザーで、埼玉から大阪に引っ越してきたばかりだと言います。身なりからは生活に困っている様子が漂い、深い事情がありそうです。 面接が終わると「子供を家に置いておけなくて、病院の玄関先で待たせています」と言うのです。その子は自動扉の向こうで寒さに震えながら待っていました。お母さんを見つけると嬉しそうに駆け寄ってきて、ピッタリくっついています。その姿に胸打たれ、一抹の不安を感じつつパートで雇うことにしました。 母は生活用品を揃えてあげたり、患者さんから頂いたお菓子を取り置きして持って帰らせたり、何かと心にかけていました。 それから一か月後のある朝、「橋本さんが出勤してきません」と病棟主任が報告に来たのです。橋本さんの携帯電話に掛けようとした時、総師長室の電話が鳴りました。橋本...

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