『田舎坊主の読み聞かせ法話』のカバーアート

田舎坊主の読み聞かせ法話

著者: 田舎坊主 森田良恒
  • サマリー

  • 田舎坊主の読み聞かせ法話 田舎坊主が今まで出版した本の読み聞かせです 和歌山県紀の川市に住む、とある田舎坊主がお届けする独り言ー もしこれがあなたの心に届けば、そこではじめて「法話」となるのかもしれません。 人には何が大事か、そして生きることの幸せを考えてみませんか。
    田舎坊主 森田良恒
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エピソード
  • 田舎坊主の七転八倒<飲みすぎました>
    2024/06/06
    法事などで僧侶に出す食事のことを「斎(とき)」といいます。 平成に変わるまでは、本膳・二の膳が一般的で三の膳がつくところもありました。 このうち三の膳は家で待ってる家族のためのものと聞いたことがありますが、現在ではもっぱら幕の内が主流となっています。 お釈迦さまの時代から僧侶に食事を提供することはとても大きな功徳があるとされてきました。 「斎」について、お盆の行事が始まりとされます。 古来インドでは、4月15日から7月15日の雨期の間、僧侶は外出を禁じられ、合同で室内で修行する安居(あんご)という期間がありました。 その安居が明ければ「僧侶たちに斎を施し、供養しなさい」とすすめられたことが斎を施すはじまりであり、お盆の起源となったとあります。 * また、こんな逸話があります。 お釈迦さまの弟子であるモッガラーナ(目連)が、餓鬼道というつらい地獄の一つに落ちた母を救うため、その方法をお釈迦さまに聞きました。そもそも、モッガラーナ(目連)の母が餓鬼道に落ちた理由は、他を愛することがなかったからです。 子どもであるモッガラーナ(目連)はなによりも大切に、あふれるほどの愛情をもって育ててきたけれど、母は他の子どもや人には目もくれず、それらを大切にし愛する心がなかったため、餓鬼道に落ちたのです。 そのため、他を思う心を持つ実践として、人々の幸せや平安を願う修行をしている僧侶たちに食事を提供することがとても大切なことだとモッガラーナ(目連)はお釈迦さまに諭されたのです。 そしてこのことがお盆の行事である「お施餓鬼」として、自分の先祖や縁故だけをお祀りするのではなく「三界萬霊抜苦与楽」と書かれた、自分と縁のない仏さまにも水を手向けるお盆の習慣ができたのでしょう。 * また、お寺の護寺運営の費用としてほとんどの寺院が檀家さんから「斎米(ときまい)」と称する志納金をいただいています。 昔は春と秋に麦や米などでお寺に納められていましたが、今ではほとんどお金で納められます。 お寺の護持運営といいながら、かつては専業坊主では食べていけなかったため、これが基本給みたいなもので、坊主の食いぶちだったようです。 ちなみに私の田舎寺では現在、年間2500円の斎米料をいただいていますが、光熱費や本堂のお供え物、修繕費などまさに護寺管理費に消えてしまいます。いじましい話しですが、当時の斎米料は1000円だったため、法事での斎には助けられたものです。 * 今ではこの田舎でも専業農家は少なくなり、法事に集まる人は勤め人が多く、法事も土・日曜日や休日で、平日に法事をおこなう家はほとんどありません。そのため休日に法事が重なり、どうしても食事に同席することができなくなり、お布施とは別にお膳料を包んでくれる家が多くなりました。 アメリカ向けのミカン栽培が最盛期だった昭和五十年ころは、農家は専業で勤め人も少なく、檀家のほとんどが農家の人たちで、休日平日を問わず法事をしてくれたので必ずと言っていいほど法事のあとの食事、斎をいただくことが多かったのです。 * そんなある日の法事でいつものとおり上座に座り、当家の親戚の人たちと杯を交わしているうち、 「なかなか若はんは、いける口やなあ。やっぱり親院家はんの子やなあ」などとおだてられ、若気の至りとでもいうべきか、へべれけに酔ってしまいました。あげくのはてには、当家の方3人ぐらいで寺まで送ってもらわなければならないほど酔ってしまったのです。 寺に帰ってきて、驚いたのは母親です。送ってくれた人に「申し訳ございません」と平身低頭するとともに、酔ってただただ笑い続けている私を裏の井戸の前に引きずっていき、裸にさせたうえ何杯もの水をぶっかけました。 それでも笑い続ける私に、「法事で酔っぱらうにもほどがある!」と、かなしかなり怒っていたのを覚えています。もちろん覚えているのは水をかけられてから後のことです。 こんどは母を怒らせてしまいました。 私が母に怒られたのは、人生でこのとき一度だけでした。 このことがあってから毎年、大晦日の除夜の鐘が鳴...
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  • 田舎坊主の七転八倒<塔婆が逆>
    2024/05/30

    法事には塔婆がつきものです。塔婆、正式には卒塔婆です。


    当地ではこの塔婆、亡くなられた方の戒名を書いたものと、施主当家の先祖代々の菩提供養を書いたものの二本が基本的なもので、法事のご先祖が複数霊あればそのぶん塔婆の本数が増えることになります。

    塔婆はおうちで読経を済ませたあとみんなで墓参りの際に持参し、墓石の後ろか塔婆立てにさし、故人の供養をするものです。


    現在ではこの塔婆、お寺が用意し、法事の依頼があれば前もって書いておいて法事当日に持参するのですが、私が小坊主の頃は、田舎といえども小さな雑貨店があって、そこで当家が必要な本数の塔婆を買い求め、床の間にしつらえられた祭壇の横に墨汁の入った硯とともにその当家が準備していました。

    来客が正座し、その衆人環視のなか、法事が始まる前、おもむろに幅7センチ長さ90センチの塔婆を左手で持ち、右手に墨を含ませた筆を持ってサラサラ、サラと格好良く梵字から始まって戒名を書くのですが・・・。

    そんなふうにうまくいけばいいのですが、そもそも世間一般には「坊主は字が上手」と間違った(?)常識が流布しているなかで、愚僧は字が汚いことこの上なく、苦手なのです。

    しかも法事にひとりでいきはじめてまもなくの頃です。法事のお客さま全員の目が一点筆先に集中するのですから、緊張するのなんのって・・・・。

    しかし、ここで逃げることもできないため、取りあえず、祭壇の位牌を見ながらやっとのことで2本の塔婆を書き終えました。

    ところが、どうも塔婆の姿がおかしいのです。

    立てて祭壇に並べてみると・・・・上下逆なのです。


    昭和48年ごろの塔婆は現在のように梵字の部分が五輪塔のような切り込みがなく、上部が緩やかな三角に面取りされ、足下は土中に差し込むために鋭く矢先のように切り込まれています。

    それでも本来なら間違うことはないのですが、あまりの緊張にそのときは足もと部分から梵字を書きはじめてしまったようです。

    祭壇に立ててすぐ気づいたので、

    「申し訳ないです。塔婆を天地逆に書いてしまいました」と話したところ、

    「いやあ、べつに分からへんからいいですよ」と、はっきり上下逆と分かるにもかかわらず、施主さんはいやな顔一つせず優しく了解してくれました。

     

    何十年も前の昔のことなのに、そのときのことは今でもはっきり記憶に残っています。

    そしてそのとき、人の間違いを、あるときには優しく受け入れ、包み込むことの大切さを学んだように思いますが、いまだに私自身実行できているか大いに疑問に思うこの頃であります。

    合掌

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  • 田舎坊主の七転八倒<天井がまるでお肉>
    2024/05/23

    檀家さんにとって私のような小坊主でも、寺の跡継ぎができた安心感やもの珍しさもあり、法事も新鮮な感じがするとかで、案外歓迎されているように思います。

    しかし法事の後、「斎(とき)」とよばれる食事の席につきますが、食事をいただいていて皆さんだんだんお酒が回ってると、法衣を着て上座に座っている坊主であっても、参列者から

    「今の若いもんは・・・」という話になることがたびたびあります。

    昭和50年ごろ、法事に来る大人の人たちは、戦中戦後の食糧難の時代を乗り越えた人ばかりで、小学校の校庭にまでサツマイモを植えてそれを主食とした世代です。

    しかしイモだけでは足らずイモの蔓まで食料にしたという飢えた時代を体験した人の、食べ物に限らず、なによりも物の大切さを話す言葉には大きな説得力がありました。

    それに比べて、私は高野山の宿坊で小坊主時代を過ごし、ご馳走と呼べるものは食べられていなかったとはいえ、白いご飯だけはタップリあったし、おかずはなくても空腹になることはありませんでした。

    ですからほんとうの空腹やひもじさというものを感じたことがないのです。

    そんな私がひもじく辛い時代を生きてきた人たちよりも上座に座り、法衣を着て法事を勤めるためには、せめてほんとうの空腹感を経験する必要があると思い始めました。

    そこで断食です。

    私がお世話になった断食道場には、多くの人が内臓の調子を整えるために来られていました。

    そこでは最長の断食期間が一ヶ月で、そのうち本断食とよばれる絶食期間は一週間と決まっています。

    しかし私はこれを修行と思い、どんなことが起こっても自分が責任をとるということで、無理にお願いして本断食を二週間にさせてもらうことになりました。

    これで、はじめの一週間が減食期間、次の二週間が本断食、残りの一週間が復食期間と決まりました。

    本断食中には夜、布団に入ると空腹にさいなまれ、部屋の天然木の天井板がまるでお肉が並んでいるように見えるといった妄想にかられました。

    ようやく本断食が終わり、減食開始から22日目に復食が始まりました。久しぶりに食べものを口にすることができる日が来たのです。

    食べものといっても一日二杯のおも湯です。

    ところが、このただのお粥の汁のようなおも湯が、なんと美味しいこと!美味しいこと!

    涙が出るほど、おいしいのです。

    このときに思いました。

    おなかが空っぽだったからこそ、おも湯に豊かで深い味わいを感じることができたのだと。

    そして足らないことを経験してみないと、豊かなものを感じることができないのだと、そのときつくづく思い知らされました。

    この断食を終えて家に帰ったとき、一ヶ月で10キロ近くやせた私を迎えてくれた母が、「痩せてかわいそうに」と、号泣するのです。

    はじめて母を泣かせてしまいました。

    思い出の断食道場は先日の火事で焼け落ちてしまいました。

    合掌

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あらすじ・解説

田舎坊主の読み聞かせ法話 田舎坊主が今まで出版した本の読み聞かせです 和歌山県紀の川市に住む、とある田舎坊主がお届けする独り言ー もしこれがあなたの心に届けば、そこではじめて「法話」となるのかもしれません。 人には何が大事か、そして生きることの幸せを考えてみませんか。
田舎坊主 森田良恒

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