『エリコに付き合うイエス(マルコの福音書10章46節)』のカバーアート

エリコに付き合うイエス(マルコの福音書10章46節)

エリコに付き合うイエス(マルコの福音書10章46節)

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概要

序)人生の旅を福音書で読む

・「エリコに着いた」というのは「エルサレムに上る(10:32)」という十字架にかかり、よみがえる旅の途中である。十字架は神を愛し人を愛することの極致であり、十字架の形をした人生が私たちの目指すもの。

・自分の人生をイエス様の旅と重ねながら読むのが福音書の読み方。

1)「エリコに着いた」のはよかったのか?

・「さて」と訳されているが、接続詞カイ(and)なので「そうして」と訳すなら、直前の出来事と関連づけられる。

・直前に起きていたのは弟子たちの権力闘争。「皆のしもべになりなさい」とのイエス様の教えがどう受け取られたかを書かずに「そうして一行はエリコに着いた」と記される。

・「皆のしもべになる」のがエルサレムなら「一番偉くなろう」とするのがエリコの町に象徴される。

・エリコはこの当時、武力によって理想の実現を目指す輩の巣窟だった。

・ここで主語は「一行は」となっておりイエス様が先頭に立つエルサレムへの道から逸れている。イエス様が主語になるのは「出ていく」時。

2)エリコに付き合ってくださるイエス様

・エリコといえば、ヨシュア記の冒頭で滅ぼされる町だが、人間ヨシュアの要らない工作により、要らない戦争の始まった場所である。

・ヨシュアはこの町の再建が起こらないように宣言したが、この時代ヘロデ王によって再建されており、第一次ユダヤ戦争の前線基地になる。

・このエリコに「着いてしまう」弟子たちの姿を思い巡らす時、自分の姿と重なってくる。愚かな椅子取りゲームは誰にも心当たりがあるのではないか。

・ここに込められた福音は、この愚かな弟子の「一行」にイエス様も含まれてくださること。エリコに入れば、イエス様は暴力的メシアとして担ぎ上げられる(誤解される)リスクがあったが、弟子たちを引き出すまで見放さない。

3)「共に生きる」という福音

・私たちは自分の基準で(それが聖書の基準と一致していたとしても)、良くない目標、目的地を掲げる人たちとどう関わるのか。一線を引いて、汚れから身を守るのか。イエス様はエリコに付き合うが、長く留まる(同化)こともしなかった。

・十字架に至る道に「エリコ」が含まれることがあり得るということ。エリコは目指すべきものではない。しかし、共に生きる仲間が迷い込む時イエス様とともに、エリコに付き合うことも「道」である。

結)離れていると思っていても、共におられるイエス

・イエス様は「悔い改め、ちゃんとするまでは遠い方」ではない。

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