『荒れ果てた聖所からの祈り(主の祈り⑥)(マタイの福音書6章12節a)』のカバーアート

荒れ果てた聖所からの祈り(主の祈り⑥)(マタイの福音書6章12節a)

荒れ果てた聖所からの祈り(主の祈り⑥)(マタイの福音書6章12節a)

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序)毎日を変える「主の祈り」

・「私たちの日毎の糧を、真に人を生かすもの(エピウーシオス)として、今日、私たちにお与えください」と祈る時、人生は変えられる。

1)隠された接続詞の重大性

・「私たちの負い目を~」と始まる文の先頭に kai(英語で言えば and)という接続詞があるが、翻訳されていない。

・「御名」「御国」「御心」「私たちのパン」までは kai は存在しない。これは「私たちのパン」と「負い目の赦し」さらに「試みや悪からの救い」までがセットであることを示す。(段階的発展があるとも言える。)

→「エピウーシオス」のパンを食べなければ「私たちの負い目をお赦しください」を祈ることも生きることもできない、ということ。

2)この祈りを 1000 回を超えて繰り返す意味

・「負い目」=「罪」ならば、イエス様を信じた時に、きれいさっぱり赦されて、永遠の義を与えられた(信仰義認)のではなかったか?

→毎週の礼拝で「お赦しください」と言い続けなければ、赦されない?

→原理としては赦されているけれど、具体的な罪を赦してもらうため?

・福音の中心は「イエス様の十字架と復活による罪の赦し」だが、その目的は、死後に天国に行けない問題を解決するだけではない。「赦し」がもたらす「父なる神との和解」によって与えられる「神の子」の自覚をもってこの世界に生きること(≒神の国に生きる)が中心目的である。

3)罪(負い目)の赦しの二つの次元

・「神様と私の間の罪」の問題は、天国止まりの福音で解決されるもの。

→「父よ」と呼びかける時点で、これはクリアされていることが前提。

・「神様と私たちの間の罪」=罪の社会的・共同体的次元が、主の祈りの眼目である。「私たちの間」に蓄積し、この世界に蔓延している「負い目」が、世界を汚し、神の臨在を遠ざけていることが問題である。

・ダニエル書 9 章 8 節~19 節がこの祈りのプロトタイプである。神の民が負い目を抱えているなら、神殿は荒れ果てたままになり、祝福は及ばない。だからこの祈りは「父よ、戻ってきてください」と祈っている。それは当然「なすべきことを行います!」という決意とセットになる。

結)現代のキリスト教会が抱える「負い目」を覚えて

・「なすべきこと」というと義務感が呼び覚まされるが、これは「エピウーシオスのパン」を食べることから生まれる恵みである。

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