『聖名を帯びたコパンとして(主の祈り②)(マタイの福音書6章9節)』のカバーアート

聖名を帯びたコパンとして(主の祈り②)(マタイの福音書6章9節)

聖名を帯びたコパンとして(主の祈り②)(マタイの福音書6章9節)

無料で聴く

ポッドキャストの詳細を見る

序)「祈り」が「願い」になりやすい私たち

・「祈り」…神様の心のとおりに私たちが動かされること

・「願い」…私たちの言葉通りに神さまに動いてもらうこと

・「御名を崇めさせたまえ」は、心からの礼拝を求めているようで、神様を鼓舞するようなニュアンスを抱いてしまうかもしれない。

1)「あなたがここに置かれた御名が」

・「御名が汚される」≒不名誉な事柄によって好ましくない評判が与えられること「汚名を着せられる」ことである。

・神様は失敗することがないのでご自身を原因として、御名が汚されることはない。神の名を帯びた者によって、御名が汚される。

・神の名を帯びたもの(御名が置かれたもの)とは、神の祝福を受ける者(民数記 6:27)であり、神殿である。(Ⅰ列王 8:29)

・御名を汚すことができるのは、私たちである。天において神の名は永遠に聖であるが、地の上においては、私たち次第である。

2)「御名を汚す」しくじりとは何か

・御名を汚す「しくじり」とは、罪を犯すことや失敗することではなく、「罪を罪と思わないで、自分を正しいとすること」「失敗や罪を隠蔽すること」である。→隠蔽は「神様は失敗や罪を赦すことのできない、心の狭い方である」「神の目は盲目で、隠すことが可能である」ということを告白する行為。愛と赦しの神は、他の神々と比較にならない卓越した神の性質(=聖)だが、それを信じて行動しないなら、汚す行為となる。

・神の聖(完全性)を信じるなら、私たちは不完全で成長する存在だと認めることになる。悔い改めや改善を放棄するなら思い上がりである。

3)聖なるものと「されますように」

・神様は私たちをご自分の「聖」に与らせようとしてくださることも忘れてはならない。神様は、私たちの名をもってご自分が呼ばれること(〇〇さんの神)を求められる。

・「聖なるものとなりますように(私、頑張ります!)」でもない。これは神的受動態である。主導権は神が取るが、私たちは自分を差し出すことが求められている。

結)「御名が置かれた天と地を結ぶ柱」として

・聖霊に自らを探られ、自分を開くことなしには祈りは「呪文」になる。

adbl_web_anon_alc_button_suppression_t1
まだレビューはありません