復活の主に会うために(マルコの福音書16章8節)
カートのアイテムが多すぎます
カートに追加できませんでした。
ウィッシュリストに追加できませんでした。
ほしい物リストの削除に失敗しました。
ポッドキャストのフォローに失敗しました
ポッドキャストのフォロー解除に失敗しました
-
ナレーター:
-
著者:
序)復活の主に会うことはできるのか?
・主イエスのよみがえりは歴史の事実と教会は伝えて来たけれど、信じられない人は多い。けれども、よみがえりが信じられないなら、大胆に従う信仰は生み出されない。
1)マルコの福音書に集中すると浮かび上がる「驚き」
①墓の中で女性たちが出会うのは、御使い(天使)ではなく青年である。
②この青年は、この墓が「十字架につけられたナザレ人イエスの墓」だと知っている。⇔15 章 46 節には、ヨセフ以外の男性は出てこない。
③「あなたがたより先にガリラヤへ行かれます」とは 14 章 26~28 節でなされた秘密の会話だったはず。
④異常すぎる女性たちの反応の理由。「やばいものを見た」感覚。
→以上のことを集約すると、出て来る結論は、ただひとつである。
2)矛盾を解くための鍵
・「ここにはおられません」→いないのは「十字架につけられた(=完了形:ずっと十字架につけられたままの、という意味)ナザレ人イエス」
・集合場所はガリラヤ?→「先に~行かれます」は「先回りして待っている」印象を与える翻訳だが、使われている動詞プロアゲイは羊飼いが羊を導くように「先に立っていく、導く」という意味(10 章 32 節参照)
3)マルコの用意した最高の結末
・マルコの福音書の真正な結びは 8 節「恐ろしかったからである」で、座りの悪い形に敢えてしている。(後代の教会による加筆は NG!)
・この結末の綴り方は創世記 18 章 13~15 節を思い起こすのに十分な表現になっている。待望の息子の受胎告知を信じられなかったサラと、待望の復活の告知を信じられなかった女性たちが重ねられている。
→このことに気づくと、物語はこれで終わらず、ひっくり返ることが予期される。女性たちは「恐ろしかった」では終わらなかった。なぜなら、マルコの福音書の存在は、彼女たちの証言なしにはあり得ないから。
結)よみがえりを示す決定打
・「ガリラヤへ導く」が謎を解く手がかり。イエスは目の前にいても受け止められなかった。その復活を受け止められるようになるには、ガリラヤから始まったイエスの歩みを、もう一度知り直すことが必要だった。
・天に上げられ見えなくなっているイエスと私たちが会うのも、同じ方法=福音書を何度も読み返すことが「ガリラヤへ」の意味である。「信じられません!助けてください」との祈りをもって読み続けること!