『妥協が苦しくなった時、基準は一段上がっている』のカバーアート

妥協が苦しくなった時、基準は一段上がっている

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「SNSを投稿すれば十分」の段階を過ぎた。質を高めたい。妥協する自分が気持ち悪くなってきた。そんな時に何を更新すべきかを書いてみる。安里圭一郎 小さな活動を育てる記録 をお読みいただきありがとうございます!新しいポストを受け取って私の活動を応援していただくために、無料で購読してください導入最近の違和感は、AIの出力品質だけの問題ではなかった。 もっと深いところで、自分の基準が変わり始めている。以前は「出せれば十分」と思っていた。実際、その段階ではそれでよかった。出すこと自体が壁だったからだ。けれど今は違う。出すことは前提になった。その上で、納得できないものを出すと自分が後から嫌になる。今日は、その感覚が何を意味しているのかを書いておきたい。妥協が苦しくなったのは、基準が上がったからだ発信を続けていると、ある時から「このままでは嫌だ」と感じる瞬間が来る。 それは停滞ではなく、基準が一段上がった合図だ。最近まさにそれが起きている。請求書の自動化を組んだのに動いていない。Substack用の台本も、同じことを何度も言う出力になってしまう。前なら「まあ出せたからいいか」で済ませていた。でも今は、それで済ませると自分に引っかかる。この感覚は面倒だ。作業は増えるし、妥協がしにくくなる。けれど悪いことではない。むしろ、次の段階に入ったからこそ起きている。問題は、基準が上がったのに、仕組みが前のまま残っていることだ。AIの出力が気に入らないなら、AIを責める前にプロンプトを見直すしかない。自動化が動かないなら、設計したつもりで終わらせず、実際に発火するところまで見ないといけない。今必要なのは根性ではなく、更新だと思う。発信の違和感は、生活全体の違和感につながっている表現に納得できなくなると、生活の妥協も目に入ってくる。 発信の質と暮らしの粗さは、思った以上につながっている。最近、文章だけでなく、自分の見た目やファッションにも違和感が出てきた。服に着せられている感じがあるし、姿勢も含めて、自分の雰囲気に納得していない。少し前まで、そこまで強くは思わなかった。でも今は、その粗さが気になる。なぜなら、発信も同じだからだ。まあいいか、で済ませたものは、後から必ず自分に返ってくる。生活でも表現でも、雑に扱った部分は、どこかでにじみ出る。だから、これはファッションの話だけではない。どう生きるかの話だと思う。熱量を持って生きると言うと大げさに聞こえるけれど、少なくとも「自分が嫌だと思うまま放置しない」ことは大事だ。そこを見て見ぬふりすると、インプットもアウトプットも鈍る。スティールパンは隠すより、配合を見直した方がいい広く届けたいから専門性を薄める。 その判断が、逆に自分の魅力を弱めることがある。Substackでは、これまでスティールパンを出しすぎないようにしていた。ニッチすぎると入口が狭くなると思っていたからだ。その判断自体は間違っていない。ただ、最近ひとつ矛盾に気づいた。自分がフォローしたくなるのは、むしろ尖った人ばかりだった。一般化された正しさより、その人にしかない固有の文脈に惹かれている。なのに自分だけは、核を薄めていた。ここで必要なのは、全面に出すか隠すかの二択ではなかった。割合の設計だったのだと思う。スティールパン特化にする必要はない。でも、20しか出していないなら、30や40に上げてみてもいい。今の自分には、その微調整が必要だと感じている。広く届けたい時ほど、自分の核を薄めたくなる。けれど、薄めすぎると、誰でも言える話になる。そこから先は、発信の強さが落ちる。今はその感覚が少し見えてきた。まず場を見て、自分の位置を知る必要がある発信の質を上げたいなら、内容だけでは足りない。 その場にどんな人がいて、何が歓迎されているかも見ないといけない。Substackについては、まだ全体像を掴み切れていない。どんな人がいて、どういう温度感でやり取りされているのか、まだ観察不足だと思う。これは反省でもある。自分の中で正しい発信を作ることはできる。でも、それが...
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