『天の恵みに手を開く~御国の三つの景色~(マタイの福音書6章10節)』のカバーアート

天の恵みに手を開く~御国の三つの景色~(マタイの福音書6章10節)

天の恵みに手を開く~御国の三つの景色~(マタイの福音書6章10節)

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序)「御国が来ますように」を教会の中心に据えて

・福音のメッセージは「私たちを(死後の)天国に入れてください」という方向性ではなく、この世界全体が、神様の祝福にあずかり、人の罪によって歪んだ世界が贖われて新しくされる(=神の国の成就)ことに中心がある。教会は「天国の待合室」ではなく「神の国の出張所」である。

1)「雨」にもいろいろあるように

・マタイの福音書では「神の国」という言葉より「天の御国」という言葉が目立つ。これは「神」という言葉を避けたユダヤ人に配慮した表現?

→それではマタイの福音書 6 章 33 節や 19 章 23~24 節が説明できない。

・「神の国」と「天の御国」は似ていて、重なるところはあるが違う強調点をもっている。マタイはさらに「父の御国」という用語も使う。

・「神の国」という大きなカテゴリーの中に「天の御国」、「父の御国」、狭い意味での「神の国」という使い分けがある。

2)「種」「花」「花園」~主の祈りで祈ること~

・種:天の御国は、天にある王としての権威の総体、神様の主権を指す。

・花:(狭い意味での)神の国は、天の王権が「地上」で実態を伴った状態。

・花園:父の御国は、キリストの再臨によって完成される世界。

・主の祈りの「御国」の直訳は「あなたの国」で、文脈上「父」と「天におられる方」の 2 つにかかる。

→「父の御国が来ますように」=再臨によって起こる世界の完成を祈る。

→「天の御国が来ますように」=天の王座と「今・ここ」の私たちが「つながりますように」という祈りである。

3)ダニエル書が教える「天の御国」とのつながり方

・ネブカドネツァル王が獣から人間に戻るところで、ネブカドネツァル王が「天の御国」を悟る。いま、目の前の現実がどうであれ、天の御国は、変わらずにずっとあり、すべてを包んでいる。

・「天の御国が近づいた」はタイミングの接近という意味ではなく「天の御国」は遠い所ではなく、いつでも、あなたの真上にあるということ。

・天の御国が来る(=天の御国とつながる)条件は「へりくだって身を低くする」こと。これは福音書で「心の貧しい者」と描かれる。

・「心の貧しさ」は精神的貧困や、自己肯定感の低さではない。

結)手を開いて、恵みを数える祈りへ

・私は恵みを忘れて、自分の手柄の有無、自分の過去を握っていないか。

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