『この地に、コパンと共に立つ(主の祈り①)(マタイの福音書6章9節ab)』のカバーアート

この地に、コパンと共に立つ(主の祈り①)(マタイの福音書6章9節ab)

この地に、コパンと共に立つ(主の祈り①)(マタイの福音書6章9節ab)

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序)「コパン(いのちのパンを共に食べる仲間)」と祈る「主の祈り」

・ユダヤ人の文章の綴り方は「山登り」のように中心に重要事項を置く。

・「山上の説教(5~7 章)」は、一つの山であり「主の祈り」が頂上にある。

・「主の祈り」も 7 つの要素で構成された山で中心は「日毎のパン(糧)」!

1)「祈り(プロスエウコマイ)」の再定義

・「祈り」と「願い」は重なる部分がないわけではないが、区別できる。

・神は、人間の「願い」を「求める前」から知っている。(8 節)

・「プロスエウコマイ」のコアは顔と顔を合わせるほどの至近距離に身を置くこと。そこで起こることは、冗長な願いのリストを伝えるのではなく神の心、神の語り掛けを聞き取ること。

・「主の祈り」は「イエス様公認のお願い事リスト」ではなく「父の語り掛けを聞き取る備え」であり、言葉の後の「間」が重要になる。

2)「父よ」「私たちの父よ」

・この呼びかけは神の性別を教えるものではない。「源」という意味であり、自分が「子」であることを自覚させる。

・この親しみをこめた呼びかけは、当時の人々には驚くべきことだった。神と人の間には幕があり、断絶があり、数々のいけにえと準備が必要だった。それを手ぶらで「父よ」と飛び越える革命的な「道」である。

・この「道」はイエスの十字架で開かれた、いのちがけの道。

・「父よ」と呼びかける時、私たちはイエスの御名で祈っている。

・「私たちの父よ」と呼びかけるとき、神の家族(コパン)の一員であることを自覚する。一人ひとりが「人類代表」であることを自覚する時、わがままな願いは消えていく。

3)「天におられる方よ」

・この言葉は、至近距離から遠ざかる感覚を呼び起こすが、これは視点、視野の違いを自覚させる言葉。伝道者 5:1~2 が背景にある。

・父は、天からの視野で私たちの知らないことを知っている。だから伝えることより、聞くことに価値がある。それゆえ「言葉を少なくせよ」

結)「天と地を結ぶ柱」として共に立つ

・父は「天」におられるゆえに「地」に触れることができない。でも、そのために「私たち(子)」が存在している。

・「主の祈り」を積み重ねる時、私たちは天と地を結ぶ「柱」になる。

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