『【仏教と鬼】──恐れの対象から自らの姿を照らす鏡へ』のカバーアート

【仏教と鬼】──恐れの対象から自らの姿を照らす鏡へ

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🔶鬼のルーツとインド・中国から日本への変遷現代で「鬼」というと、人を襲う化け物や、地獄で亡者を痛めつける恐ろしい存在をイメージする人が多いかもしれません。しかし、古代インドの初期仏教における地獄(サンスクリット語で「ニラヤ」)には、もともと「鬼」という概念はありませんでした。地獄・餓鬼・畜生の「三悪道(さんあくどう)」において、地獄で亡者を懲らしめる役目は「獄卒(ごくそつ)」と呼ばれていました。これが中国に伝わった際、漢訳によって「獄卒鬼」や「鬼」と表現されるようになります。また、鬼が「虎の皮のパンツ」を履いて角を生やしているイメージは、ヒンドゥー教のシヴァ神(退治した虎の皮を腰に巻く姿)やヤクシャ(夜叉)などのイメージが混ざり合ったものです。さらに中国では死者の霊を「鬼(キ)」と呼び、人が亡くなることを「鬼籍(きせき)に入る」と表現する文化も生まれました。日本に伝わると、目に見えない疫病や災厄(おに=隠・おん)が恐ろしい容貌として可視化され、今日の鬼のイメージが定着していったのです。🔶親鸞聖人が説く鬼神への恐れからの解放浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の中で、「鬼」や「鬼神(きじん)」という言葉を用いておられます。当時の人々は、目に見えない病気や災難を鬼や邪神の祟り(たたり)として深く恐れ、それらを鎮めるための祈祷や迷信に捉われていました。それに対し親鸞聖人は、「そうした目に見えないものや鬼神を恐れて祀ったり、おもねったり(鬼神仕え)する必要は全くない」と強く示されました。阿弥陀さまの「絶対にあなたを救う」という大いなる本願を信じ、お念仏を称えて生きる者は、どのような鬼神や災厄からも護られているから大丈夫であると解き放たれたのです。外なる恐怖に脅かされていた当時の人々にとって、この教えは心の底から救いとなるものでした。🔶妙好人・浅原才市にみる「わが心の中の鬼」浄土真宗でお念仏の喜びの中に生きた人々を「妙好人(みょうこうにん)」と呼びますが、石見国(現在の島根県大田市温泉津町)の妙好人・浅原才市(あさはら さいち)さんにまつわる味わい深いエピソードがあります。ある時、画家が才市さんの肖像画を描いて見せたところ、とてもよく似ていたのにもかかわらず、才市さんは「これはわしじゃない」と怒り出しました。そして「わしは鬼じゃ。頭に角を二本書いてくれ」と画家に頼み込んだのです。画家が言われた通り頭に角を描き加えると、才市さんは「これこそ真実のわしの姿じゃ」と大変喜び、深く感謝したといいます。これは「私の中には、他人を羨み、妬み、腹を立てる自尊心や煩悩(鬼)が渦巻いている」という、自らの醜い姿を鋭く見つめた言葉でした。才市さんは、自らの内に棲む鬼の姿(煩悩具足の凡夫)を自覚したからこそ、そんな浅ましい自分をも決して見捨てずに包み込んでくださる阿弥陀さまの慈悲のありがたさを誰よりも深くかみしめていたのです。🔶外の鬼を恐れるのではなく内なる鬼を見つめる近年、漫画作品などの影響もあり「鬼」という存在への関心が高まっていますが、仏教の視点は「外にいる恐ろしい鬼を退治する」のではなく、「自分自身の心の中に潜む鬼を見つめ直す」ことに向けられています。怒り、嫉妬、貪りといった煩悩に振り回され、ともすれば他者を傷つけてしまう私たちの心こそが「鬼」そのものです。「鬼は外、福は内」と外に退散させるのではなく、実は「鬼は内」にこそ存在するという現実を受け止めること。そして、そんな鬼のような私をそのまま救い取ってくださる阿弥陀さまのみ教えに出会い、自らを照らす鏡として「心の中の鬼」を見つめていく姿勢こそが、現代に生きる私たちに求められている大切な歩みなのです。🔶今週のまとめ【1】現代の鬼のイメージは、インド仏教の「獄卒」やヒンドゥー教のシヴァ神の姿、中国の死者霊信仰、日本の「隠(おん・災厄)」の思想が合流して形成されました。【2】中国で死者の霊を「鬼」と呼んだ文化は、...
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