『【聖徳太子】──日本仏教の父と「和国の教主」の精神』のカバーアート

【聖徳太子】──日本仏教の父と「和国の教主」の精神

【聖徳太子】──日本仏教の父と「和国の教主」の精神

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🔶厩戸皇子から聖徳太子へ、激動の時代と仏教伝来近年、学校の教科書などでは当時の名である「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」という表記が増えていますが、没後に「聖徳太子」の諡号(しごう)が贈られたこの方は、日本の仏教史上、極めて重要な人物です。浄土真宗の宗祖・親鸞聖人は、太子を「和国の教主(わこくのきょうしゅ)」、すなわち「日本の釈尊(お釈迦さま)」であると深く崇め奉りました。そのため、真宗の寺院の本堂内陣(向かって右側)には必ず聖徳太子の絵像や木像が安置されており、今も大変大切にされています。仏教が日本に伝来した時期には、公伝とされる538年や『日本書紀』に記された552年など諸説ありますが、その少し後の574年、用明天皇の第二皇子として太子は誕生されました。当時は、百済などから伝わった未知の教えである仏教を受け入れるべきか否かという「崇仏論争」が激化していた、まさに激動の時代でした。🔶十七条憲法に込められた「篤く三宝を敬え」の精神わずか20歳で推古天皇の摂政となった聖徳太子は、政治の根本に仏教の精神を据え、国家の基盤づくりに尽力されました。西暦604年に制定された「十七条憲法」の第二条には、「篤く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏・法・僧なり」と記されています。ここでいう「僧」とは、単に個人の僧侶を指すのではなく、サンスクリット語の「サンガ(ともに仏教を学ぶ仲間の集い・教団)」を意味します。太子は、蘇我馬子(そがのうまこ)らと共に仏教を国教的なよりどころとすることで、人々が争いをやめ、互いを尊重し合える平和な国を目指されたのです。🔶冠位十二階と法隆寺・四天王寺の建立にみる平等思想太子の功績である「冠位十二階」の制定も、非常に仏教的な平等精神に基づいています。それまでの家柄や身分による世襲制を排し、個人の才能や功績に応じて役職(冠位)を与えるというこの制度は、全ての人が平等に仏性(ぶっしょう)を持つという仏教の教えに通じるものがあります。また、父である用明天皇の遺志を継ぎ、推古天皇と共に建立した「法隆寺」をはじめ、日本最古の官寺である「四天王寺」など、多くの寺院を建立されました。この大規模な建築事業の功績から、聖徳太子は現代でも大工や建築職人の世界において「職人の守護神」として尊ばれています。江戸時代には、熊本の細川藩の武家屋敷が建てられた際にも、工事の安全を祈願して聖徳太子像が奉納されるなど、地域を超えた篤い信仰を集めました。🔶烏帽子姿ではない、お寺に伝わる太子の真実の姿かつてのお札に描かれていた烏帽子(えぼし)に笏(しゃく)を持った聖徳太子の肖像画は、後世に描かれたイメージ図です。仏教の世界や古くからのお寺で一般的に安置されている太子の姿は全く異なります。幼少期の姿を描いた、頭髪を左右で結ったお団子のような「角髪(みずら)」姿の像や、わずか2歳の時に東を向いて「南無仏(なむぶつ)」と唱えられたお姿を模した、上半身裸の「南無仏太子像」、16歳の時に父の病気平癒を祈った「孝養(くよう)像」など、多様な重要文化財の姿が今に伝わっています。私たちの仏嚴寺にも、そうした古い歴史を持つ由緒ある聖徳太子像が大切に受け継がれています。🔶今週のまとめ【1】聖徳太子(厩戸皇子)は、親鸞聖人から「和国の教主」と称えられた日本仏教の恩人であり、真宗寺院の本堂にも必ず安置されています。【2】十七条憲法で説かれる「三宝(仏・法・僧)」の「僧」とは、単なる僧侶ではなく、共にみ教えを学ぶ仲間(サンガ)を指しています。【3】冠位十二階の制定や法隆寺・四天王寺の建立には、身分に捉われず人々が共に手を取り合うという仏教の平等精神が活かされています。【4】聖徳太子は建築・大工の世界でも守護神として尊ばれており、熊本の細川藩をはじめ全国各地に太子信仰の形が残されています。【5】お札の烏帽子姿は後世の肖像であり、お寺では幼少期の「南無仏太子像」など、み教えを象徴するお姿で親しまれています。次回テーマは「浄土真宗と聖徳太子(後編)」...
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